11/20/2023

町田久成館長像・町田石谷君碑


2023.10.21

東京国立博物館本館。



平成館右手にある町田久成像。



久成は1865年、薩摩藩留学生を引き連れ英国に渡った。約2年半の留学を経て帰国すると、大政奉還が行われ、明治維新で急速に西洋化が進むなか、日本の古美術画などの海外流出や廃仏毀釈で重要文化財が失われていくのを目のあたりにする。この現実に文化財保護を提唱し、大英博物館で受けた感銘をもとに、博物館創設を志した。
そして開館にこぎつけると、初代館長に就任。しかし僅か7ヶ月で退任し出家、滋賀の三井寺(園城寺)の仏門に入っている。

この三井寺に蘭奢待(香木)の断片が保存されているという。明治天皇が行幸の際、正倉院に同行した久成は天皇に命じられ、蘭奢待の一部を切り取った。かつて織田信長は、切り取ったうち1片を正親町天皇へ献上、さらに後水尾天皇へと渡り、島津家久へと切り分けられた。本源自性院記に「禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす」との記述があるという。この家久とは、島津4兄弟の家久も上京しているので紛らわしが、年代的に初代薩摩藩主 忠恒の方だろう。

三井寺で病に伏せた久成は東京に戻る。そして寛永寺子院の明王院で療養を行うが1897年に亡くなった。一周忌に東叡山津梁院に供養塔が建立される。

また東京国立博物館の本館裏庭園にある町田石谷君碑は、17回忌に際し井上馨らの提案により建立された。


10/10/2023

姶良市歴史民俗資料館・鹿児島旧港施設 (2)・興国寺跡墓地


2023.8.16 (4)

タイミングが合わず、なかなか行けてなかった姶良市歴史民俗資料館へ。この時は夏季特別展「前の浜の戦(薩英戦争)」が開催されていた。



常設の戦国期展示物は蒲生城古図、岩剣合戦概略図、関ヶ原合戦の島津軍撤退ルート図など。また、物販で平成16年の「越前(重富)島津家の歴史」と平成18年の「戦国武将 島津義弘」の特別展図録、新刊「九州の名城を歩く (宮崎、鹿児島編)」を購入した。




鹿児島市内に戻り、前回撮り損ねていた旧港施設の新波止砲台跡碑へ。正面が対岸側でiPhoneのズームでもこれが限界。新波止砲台跡といっても、実際は1904年に新波止と一丁台場を繋ぐために築造された遮断防波堤上にある。



新波止は島津氏28代 斉彬が防波堤を台場に改修し、1863年の薩英戦争では150ポンド砲を含む11門の大砲が配備され、主力砲台として英国艦隊との砲撃戦が行われた。




薩英戦争後、薩摩藩は和解した英国に使節団と留学生を派遣。その団長を務めた新納久脩(中三)の墓が興国寺跡墓地にある。



久脩は英国渡航時に紡績機械を購入していて、磯に洋式機械紡績所を開業させた。この時に雇い入れた技師の居館は異人館と呼ばれ、産業革命の遺産として残されている。

興国寺は島津氏11代 忠昌が清水城一画に建立。その後、島津氏12代 忠治が同地に大興寺を築くため御厩に移され、さらに鶴丸城建設に伴い現在地に移設された。忠昌の墓は福昌寺に改葬となるが、豊州島津家や永吉島津家4代 久雄の墓石など興味深いものも多い。
しかし配置図はなく、伸びきった草々で条件はすごく悪かった。結局、見つけられず終い。

新納家の墓石の背面にある伊集院家の墓石群。



宝暦治水の副奉行を務めた伊集院十蔵の墓。側面に久東と彫られている。



伊地知親子の墓は、倉庫前にあるのでわかりやすい。伊地知季安の墓。



伊地知季安は島津氏28代 斉彬に認められ、記録奉行として島津氏700年の歴史編纂を任された。その大業は子の季通と2代に渡り、薩藩旧記雑録を完成させている。

10/07/2023

建昌城跡 (2)


2023.8.16 (3)

島津季久が豊州島津家の本城として築いた瓜生野城。豊州家2代 島津忠廉が日向飫肥へ転封後は使われなくなり、廃城となったと考えられている。廃城後の残る史料は、島津家久が島津氏の本城としようとしたこと、関ヶ原の合戦後に徳川方の侵攻に備えて島津義弘が拡張整備したということ。その整備前後の全貌の区別がはっきりしないが、要害堅固な様が明の建昌城に似ているということで、そう呼ばれるようになった。

西側は駐車場が整備され、西ノ丸跡は市民農園として利用されている。一方、東側には胡麻ヶ城(瓜生野城)と呼ばれる曲輪群が形成されていて、遺構もよく残っているという。
確かに縄張り図からも、複雑に細かく曲輪が雛壇状に配備された様子が読み取れ、この虎口から攻め難いのは想像に難くない。



これを搦手口とする史料もあるが、少なくとも現在の構造を踏まえると、大手口との見解が正しいように思える。

そして東西を貫く馬乗馬場へと繋がり、左右に曲輪が配置されている。



胡麻ヶ城の土塁。



奥には曲輪群が広がる。



前之丸と胡麻ヶ城の空堀は虎口へと通じる。



常見之丸にある城跡の標柱。



二ノ丸の土塁。


9/18/2023

高尾城跡・平山城跡(帖佐本城)


2023.8.16 (2)

島津義弘居館跡に戻り、高尾城跡及び平山城跡を目指す。桜公園に駐車場があるらしいが、麓からの道は軽自動車ぐらいしか通れなさそう。徒歩で15分くらいと書いてあったので歩くことにした。

高尾城跡、平山城跡遠景。



しばらく歩くと平山城の支城として築かれた高尾城跡の標柱があった。



ここから数分登った曲輪に、元稲荷と呼ばれる所がある。



1598年、朝鮮出兵(慶長の役)で島津軍の守る泗川新城に、董一元を大将とする20万の明軍が攻めてきた。その時、火薬を抱えた赤と白の狐が現れ明軍に突入し自爆したという。そして混乱した明軍を島津軍は城から撃って出て撃退した。この狐の骨を増長院住持の陣僧頼雄法師に持ち帰らせ、祀った稲荷神社が同年に建てられた。後年、崩壊のおそれから麓の島津義弘居館跡(御屋地跡)へ移され現在に至る。

元稲荷の途中の石垣。



右側には段曲輪が広がっている。




車道に戻りさらに進むと、左手に鳥居があり右手に桜公園が位置する。この辺一帯が平山城跡(平安城、帖佐本城ともいわれる)となる。



1282年、平山了清が帖佐郷の領家職を得て下向、山城国の石清水八幡宮を勧請し祠を建立した。そして新正八幡と称し一帯に城郭を構えた。

鳥居から参道を進むと新正八幡神社が鎮座、裏手には土塁が現存している。




鳥居下の空堀。この先に空堀が続き曲輪群があるようだが、整備されておらず進むのは困難。



左手の曲輪には、別当寺と定められた増長院の住職墓がある。



桜公園は季節柄草が生い繁り、さらに先は姶良無線基地局の敷地となっていた。姶良市街地が遠望できる。



代々居城としてきた平山氏は9代 武豊が島津氏9代 忠国と対立、忠国の弟 季久が平山城を攻め落とすと、帖佐は豊州島津氏が所領するようになる。そして別府川を挟んで瓜生野城(後の建昌城)を築き、嫡男の島津忠廉とともに移り豊州島津氏の本城とし、平山城には次男の忠康を在番させた。後に島津氏11代 忠昌は、豊州島津氏2代 忠廉を帖佐から日向飫肥に移し伊東氏の侵攻に備えている。
一方、忠康は大隅国の串良城を与えられ移ったため、帖佐は島津宗家の直轄領となった。そして平山城に入った川上忠直は辺川を名乗る。しかしこの辺川忠直、次に帖佐地頭となる島津昌久と、続けて薩州家の島津実久と通じて島津宗家に叛いた。ともに島津忠良によって制圧されているが、この相州家と薩州家の家督争いに乗じ、今度は祁答院重武が平山城及び山田城を攻め落とし私領化した。そして重武から良重へと引き継がれる。

1554年に岩剣城を島津氏15代 貴久に攻略された良重は、さらに平山城で抵抗を続けたが、瓜生野城に布陣した島津軍により祁答院勢は壊滅し虎居城へと退いた。

9/12/2023

総禅寺跡 (2)・膝跪騂の墓


2023.8.16 (1)

今日は豊州島津家関連の史跡を中心に巡る予定。まずは豊州家島津氏菩提寺の総禅寺跡を再訪した。民間墓奥に豊州家島津関係の石塔群がある。



島津氏8代 久豊3男、豊州家初代 島津季久の墓。



以前、豊州家6代 島津朝久のものとした墓石だが、7代 島津久賀息男久基墓との表示がされていた。朝久の墓の標柱は不自然な所に建っていて、元々違和感はあったが真相はどうなのだろう。



島津義弘が北郷忠孝(忠親の実弟)の娘との間にもうけた御屋地の墓。後に朝久の室として迎えられる。



伊東氏、肝付氏と対峙していた豊州島津家は、北郷忠親(忠相の子で北郷氏9代だった)が豊州家5代当主に就き、1560年に宗家から義弘を養子に迎え入れ飫肥の守りを固めた。しかし廻城の戦いで苦戦を強いられた島津氏15代 貴久は、養子縁組を解消させ義弘を本宗家へ戻している。


豊州島津家歴代墓は、10代以降の墓地があった南林寺から改葬されたもの。ちなみに豊州島津家8代 久守、9代 久邦は興国寺跡が墓所となっている。



島津金吾歳久公胴体埋葬之跡。



1592年、梅北一揆の責任を取らされるかたちで豊臣秀吉の命に従い、歳久は自害へ追い込まれた。首は名護屋城にいた秀吉の検分を受け、京都の一条戻橋に晒され浄福寺へ、胴体は総禅寺に葬られた。首と胴体が一緒に埋葬されるまで280年もの年月を経ることになる。



島津義弘居館跡の先にある膝跪騂の墓へ。1572年、日向伊東氏との木崎原の戦いに於いて、柚木崎丹後守との一騎討ちで義弘を愛馬が両膝をつき助けたといい、その愛馬は膝跪騂と名付けられたと伝わる。墓石は1707年に種子島伊時(後の久基)が再建したものだという。



後ろには膝跪騂を最後まで世話した橋口対馬安重夫婦の墓がある。


9/10/2023

川上天満宮・町田家墓石塔群 (2)・石谷城跡


2023.8.15

祖母の初盆祭を川上天満宮で執り行なった。



御朱印。



島津氏5代 貞久が、京都の北野天満宮の御霊を薩摩国川上村に勧請し創建、地域の平安と五穀豊穣、無病息災を祈願し、川上天満宮は三社詣りの三之宮に位置付けられ、正月には島津氏当主が詣でる慣わしがあった。それは島津氏19代 光久の頃まで続き、特に島津氏18代 家久は篤く尊崇していたという。

川上氏は貞久の庶長子 頼久から始まり、3代 家久が川上村を宛てがわれ代々治めた。



一旦実家に戻り、永福寺跡裏手にある町田家墓石塔群を再訪。



町田氏は島津氏2代 忠時の7男 忠経、その子 忠継に始まり、弟の忠光が町田氏2代を引き継いだ。ここにある15代 梅久、17代 久徳、22代 久東から28代 久長の墓碑は、五輪塔や石祠型など様々。

町田氏15代 梅久の墓。



1536年、島津忠良・貴久に内応した長男の忠栄(町田氏16代)が、薩州家 島津実久に叛き兵を挙げた。人質に入っていた梅久は鹿児島から脱出したが、犬迫の萩別府で肥後助西の兵と野戦になり戦死した。墓碑には、その伏野原の戦いとなった日の天文5年12月6日が刻まれている。
ともに討死した町田忠親兄弟の墓碑。



また梅久2男の石谷忠成は島津忠将の家老を務め、廻城の戦いに従軍し竹原山の救援に向かう途中、肝付兼続の伏兵により忠将らと討死した。


22代 久東の墓。



25代 久甫の墓。



28代 久長(久成の父)の墓は神式による墓標。




近くの旧石谷小学校跡には標柱があり、この一帯に石谷城は築かれていた。築城は町田氏2代 忠光といわれ、16代 忠栄が拡張し整備した。3つの曲輪から成り、永福寺跡に入る道は空堀跡だと思われる。


8/31/2023

越前(重富)島津家墓地 (2)・平松城跡


2023.8.14

お盆帰省の途中、越前(重富)島津家墓地へ立ち寄る。



島津氏初代 忠久が鎌倉幕府から越前守護職を与えられ、守護代として2男の忠綱が下向したことにより越前島津家は興る。2代 忠行は下揖保庄地頭として播磨国へ入り、以降は石蜘蛛城を本拠に15代 忠長まで続いた。その忠長は赤松氏に従い浦上氏との抗争で討死し、越前島津家は途絶えることになる。

1666年に遺児 忠之の妻(年代的に無理があるかも)、もしくは遺孫が家名の復興を図り、越前島津家文書と系図を携えて大隅国鹿屋まで至ったがそこで病没したという。この文書が新城島津家から垂水島津家を経て島津本家へと渡ると、文書の出所を確かめたり、龍野の如来寺へ情報収集や播磨揖保庄の見聞などを行なった。

実際に再興されたのは1737年。療養中の島津氏22代 継豊に代わって隠居していた島津吉貴は、2男 忠紀に越前島津家16代を継がせた。重富郷と名付けられた1万石が与えられ領主となる。すでに越前島津家は15代 忠長から忠之、そして義弘(宗賀)へと相続されていたが、系図に従い再興は16代からとなっている。

菩提寺だった紹隆寺跡には16代 忠紀から19代 忠公、21代 珍彦から23代 忠彦の墓がある。
忠公の養子に入って家督を継いだ20代 忠教(久光)は、島津氏29代 忠義の後見役として本家に戻ったため、死後は福昌寺に葬られた。

再興した16代 忠紀の墓。



島津氏26代 斉宣の子 19代 忠公の墓。



島津久光の3男で最後の領主となった21代 珍彦の墓。




近くには越前島津家が廃藩置県まで居館とした平松城跡がある。現在は重富小学校となっていて、野面積みの石垣が現存。



平松城は島津義弘が岩剣城の戦い後、在番となり麓に平松城を築いたことに始まる。関ヶ原の敗戦後、徳川家康に恭順の意を示すため桜島に蟄居、そして加治木に移るまで居館とした。