2023.12.31 (3)
いつか行こうと思っていた川上昌久の墓碑へ。国道10号線から脇道に入り、鳥越坂の急斜面1車線を行ったり来たりしても見つからず。ちょうど洗車している方がいたのでお伺いしたところ、庭先から見える白い標識を教えて頂いた。どうみても民家の敷地内だったので、在宅されていた方に声を掛けて入らせてもらった。
この墓碑は1712年に子孫の久東が建てたものだという。
悔返しにより守護職に復帰した島津勝久は、仕えていた重臣を遠ざけ、政務を怠るようになったという。家老の川上氏10代 昌久は、末弘網秀の登用に原因があるとして勝久を諌めたが受け入れず、1534年に谷山の皇徳寺で網秀を誅殺へと及んだ。
この行動は勝久の怒りを買い、大興寺に呼び出された昌久は道理にかなわず自刃。
さらに勝久に居城であった川上城を攻められたが、籠城した昌久室と家臣たちが撃退、旧領は島津忠良によって安堵された。
大興寺があった清水城跡へ。
大興寺口から山神権現を通って、大空堀に入る手前左側の西添曲輪。形状から腰曲輪が連なっていたと思われる。
今回主郭部の草刈りが行われていて、本丸下の段状になった構造が確認できた。