5/26/2024

藤原昌久華翁浄栄居士霊墓碑・清水城跡 (4)


2023.12.31 (3)

いつか行こうと思っていた川上昌久の墓碑へ。国道10号線から脇道に入り、鳥越坂の急斜面1車線を行ったり来たりしても見つからず。ちょうど洗車している方がいたのでお伺いしたところ、庭先から見える白い標識を教えて頂いた。どうみても民家の敷地内だったので、在宅されていた方に声を掛けて入らせてもらった。

この墓碑は1712年に子孫の久東が建てたものだという。




悔返しにより守護職に復帰した島津勝久は、仕えていた重臣を遠ざけ、政務を怠るようになったという。家老の川上氏10代 昌久は、末弘網秀の登用に原因があるとして勝久を諌めたが受け入れず、1534年に谷山の皇徳寺で網秀を誅殺へと及んだ。
この行動は勝久の怒りを買い、大興寺に呼び出された昌久は道理にかなわず自刃。
さらに勝久に居城であった川上城を攻められたが、籠城した昌久室と家臣たちが撃退、旧領は島津忠良によって安堵された。



大興寺があった清水城跡へ。



大興寺口から山神権現を通って、大空堀に入る手前左側の西添曲輪。形状から腰曲輪が連なっていたと思われる。



今回主郭部の草刈りが行われていて、本丸下の段状になった構造が確認できた。


5/20/2024

上山城跡・夏蔭城跡・城山公園


2023.12.31 (2)

現在の城山公園一帯は、島津氏の下向以前から豪族 上山氏の城があった。しかし正平年間に桜島へと居を移し廃城となる。
1602年頃、島津氏18代 家久が麓に鶴丸城の築城を始め、背後の上山城を後詰めの城として整備、島津歳久の孫にあたる常久が城番に命じられた。しかし1614年に常久が没すると、以降は城番が置かれることはなかったという。また1877年の西南戦争では、西郷隆盛が籠城したことで知られている。



南泉院跡(照国神社)横の大手跡から現在は城山公園の上山城跡を目指す。江戸時代の排水溝。



城山公園駐車場横の売店脇階段を上がると、かつて正午の時報がわりに空砲を撃っていたという二之丸跡(ドン広場)。名は空砲の轟音に由来。



周囲に残る土塁。



さらに一段高くなっている所に、西南戦争時の薩軍本営跡の碑が建つ。



新照院口を抜けしばらく進むと、夏蔭城跡に城趾碑がある。



上山城の北側にあたるここは、兵士を配備し裏手の守りを固める役割があった。当時は楠木が生い茂り高涼地で夏蔭といわれ、いつしか夏蔭城と呼ばれるようになったという。遺構なのか後世のものか判断つかないが、山の斜面を利用した腰曲輪が段状に連なる構造となっている。



草牟田方面の眺め。



城山展望台に戻る。




遊歩道を下って探勝園方向へ。途中にある近衛の水とよばれる藩政時代の水道遺跡。



説明板には、1723年に島津氏22代 継豊が水源の冷水町から城下へ水道を引かせ、さらに島津氏27代 斉興の時代、約1.2kmに及ぶ石管で配水され要所に貯水槽を設けたとある。名は関白の近衛信輔がすずりの水に使用したことに由来するが、年代を考えると水道整備される前で辻褄が合わない。後付けされたものかと推測できる。

また近くには現在でもシラス層と泥岩層の境から水が湧き出ているところがある。


5/18/2024

碇山城跡・隈之城跡(二福城跡)


2023.12.31 (1)

1339年頃、島津氏5代 貞久が碇山城を築き木牟礼城から守護所を移したとされる。
貞久は大隅国守護職を氏久(奥州家)、薩摩国守護職を師久(総州家)に相続しそれぞれ統治させた。

総州家が居城とした碇山城の現在は、採石場として西側が跡形もなく削平され、移された日枝神社横に城跡碑が建っている。



残った東側の主郭部。




奥州家と総州家は次第に敵対するようになり、鶴田合戦や相続争いに端を発した伊集院頼久との争いなど抗争が続いた。
1416年、総州家 島津久世と奥州家 島津久豊は和睦を計ったが決裂。河邊を明け渡すよう求めた久豊に対して、久世はこれを拒否し自害して果てた。

一方1419年、総州家 島津忠朝の永利城が入来院重長と市来家親に攻められる。久豊の援軍も加わり忠朝は耐え切れず降伏すると、隈之城に退き永利城は重長に与えられた。さらに2年後、隈之城を忠国が攻め落とすと島津直轄領とし、その後は薩州島津氏押領、入来院氏領、再び島津直轄領と変還し地頭に島津家久が就いている。




平佐城跡の南に位置する小高い住宅地の一画、子安観音像横に石標が建つ隈之城(二福城)は鎌倉時代初期、薩摩郡司 薩摩太郎忠友が居城していたといわれる。

1422年、碇山城から叔父の守久が在城する木牟礼城まで退いていた久世の嫡男で総州家5代 久林だったが、久豊が忠国と伊作勝久に木牟礼城を攻めさせ守久と久林は耐えきれず逃亡、薩摩国は奥州家によって平定された。

そして日向国真幸院に逃れていた久林は、忠国から攻められると自害に追い込まれ、総州家は1430年に5代で途絶えた。