2023.12.31 (2)
現在の城山公園一帯は、島津氏の下向以前から豪族 上山氏の城があった。しかし正平年間に桜島へと居を移し廃城となる。
1602年頃、島津氏18代 家久が麓に鶴丸城の築城を始め、背後の上山城を後詰めの城として整備、島津歳久の孫にあたる常久が城番に命じられた。しかし1614年に常久が没すると、以降は城番が置かれることはなかったという。また1877年の西南戦争では、西郷隆盛が籠城したことで知られている。
南泉院跡(照国神社)横の大手跡から現在は城山公園の上山城跡を目指す。江戸時代の排水溝。
城山公園駐車場横の売店脇階段を上がると、かつて正午の時報がわりに空砲を撃っていたという二之丸跡(ドン広場)。名は空砲の轟音に由来。
周囲に残る土塁。
さらに一段高くなっている所に、西南戦争時の薩軍本営跡の碑が建つ。
新照院口を抜けしばらく進むと、夏蔭城跡に城趾碑がある。
上山城の北側にあたるここは、兵士を配備し裏手の守りを固める役割があった。当時は楠木が生い茂り高涼地で夏蔭といわれ、いつしか夏蔭城と呼ばれるようになったという。遺構なのか後世のものか判断つかないが、山の斜面を利用した腰曲輪が段状に連なる構造となっている。
草牟田方面の眺め。
城山展望台に戻る。
遊歩道を下って探勝園方向へ。途中にある近衛の水とよばれる藩政時代の水道遺跡。
説明板には、1723年に島津氏22代 継豊が水源の冷水町から城下へ水道を引かせ、さらに島津氏27代 斉興の時代、約1.2kmに及ぶ石管で配水され要所に貯水槽を設けたとある。名は関白の近衛信輔がすずりの水に使用したことに由来するが、年代を考えると水道整備される前で辻褄が合わない。後付けされたものかと推測できる。
また近くには現在でもシラス層と泥岩層の境から水が湧き出ているところがある。
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