2023.12.31 (1)
1339年頃、島津氏5代 貞久が碇山城を築き木牟礼城から守護所を移したとされる。
貞久は大隅国守護職を氏久(奥州家)、薩摩国守護職を師久(総州家)に相続しそれぞれ統治させた。
総州家が居城とした碇山城の現在は、採石場として西側が跡形もなく削平され、移された日枝神社横に城跡碑が建っている。
残った東側の主郭部。
奥州家と総州家は次第に敵対するようになり、鶴田合戦や相続争いに端を発した伊集院頼久との争いなど抗争が続いた。
1416年、総州家 島津久世と奥州家 島津久豊は和睦を計ったが決裂。河邊を明け渡すよう求めた久豊に対して、久世はこれを拒否し自害して果てた。
一方1419年、総州家 島津忠朝の永利城が入来院重長と市来家親に攻められる。久豊の援軍も加わり忠朝は耐え切れず降伏すると、隈之城に退き永利城は重長に与えられた。さらに2年後、隈之城を忠国が攻め落とすと島津直轄領とし、その後は薩州島津氏押領、入来院氏領、再び島津直轄領と変還し地頭に島津家久が就いている。
平佐城跡の南に位置する小高い住宅地の一画、子安観音像横に石標が建つ隈之城(二福城)は鎌倉時代初期、薩摩郡司 薩摩太郎忠友が居城していたといわれる。
1422年、碇山城から叔父の守久が在城する木牟礼城まで退いていた久世の嫡男で総州家5代 久林だったが、久豊が忠国と伊作勝久に木牟礼城を攻めさせ守久と久林は耐えきれず逃亡、薩摩国は奥州家によって平定された。
そして日向国真幸院に逃れていた久林は、忠国から攻められると自害に追い込まれ、総州家は1430年に5代で途絶えた。
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