4/30/2018
石山観音寺・木崎原古戦場
2018.4.6
石山観音寺は、子授け・安産祈願にご利益のあるとのことなので、急遽追加したんだけど、行ってみて良かった。
福昌寺の末寺だそうで、山門には丸に十字が刻まれている。
薩摩藩主 家久や光久も参詣したとか。山門を入ってすぐ左に、近くの採石場から出たという丸石が。その姿から、安産祈願の観音とされる由縁なのだろうか。
ここから観音堂まで約200mの参拝道を上がる。静寂な雰囲気に包まれ、雨上がりということもあり神秘的な空気に圧倒された。
しばらく歩くと石段へと変わり、その先に鮮やかな朱色の観音堂が現れる。
老朽化に伴い、昭和58年に現在の八角堂に再建された。
次は宮崎自動車道を使い、えびの市の木崎原古戦場へ。
1572年、伊東義祐が日向真幸院から島津氏を排除しようと仕掛けた木崎原の戦い。
総大将 伊東祐安が率いる伊東軍は、城代 川上忠智、島津義弘の実窓夫人、鶴寿丸らが在城する加久藤城へ進軍した。
日向国最前線の飯野城主 義弘は、加久藤城の危急を知ると、遠矢良賢を加久藤城の後詰めとして送り、村尾重侯や鎌田政年、五代友喜らを数手に分け伏兵とした。自身は二八坂に布陣。
加久藤城を攻めあぐんでいる伊東軍に、川上忠智は城内から打って出る。そこに遠矢良賢の援軍が到着し、伊東軍は堪らず鳥越城跡まで退いた。
夜襲の疲れと蒸暑さから、池島川で休息している伊東軍に、義弘本隊は正面から攻撃を仕掛ける。
その時に伊東祐信(新次郎)を討ち取った義弘が、一時休息したと伝わる腰掛石が六地蔵塔の横に現存している。
不意をつかれた伊東軍は態勢が整わず、白鳥山を抜け高原城へ退却を図った。しかし白鳥権現別当寺満足寺の住持、光厳法印の策略で押し戻され、義弘本隊と再び衝突。
義弘本隊は伊東軍の猛攻に押され、兵を引きながら決戦の場を木崎原とし巧みに誘導する。
正面には義弘本隊、背後から鎌田政年が指揮する伏兵に攻められ、伊東軍は大混乱に陥り敗走を始めた。
殿軍を務めた柚木崎丹後守(柚木崎正家)は、義弘に一騎討ちを挑み討たれる。この一戦で、義弘の愛馬が両膝をつき槍をかわしたというのは有名な逸話だが、これには諸説あり、槍ではなく弓だったとか、敵将が伊東祐信の時だったともいわれている。
この愛馬は、長寿院盛淳から送られた栗毛の牝馬で、後に膝つき栗毛と呼ばれるようになった。
敗走する伊東軍は、西へ逃れようとした者は新納忠元の援軍に屈し、小林城に退却しようとした伊東祐安は、本地原で村尾重侯の伏兵により首を取られている。
また伊東氏側に加担し、援軍として駆けつけた肥後の相良義陽は、島津軍が旗幟を立て伏兵に見せかけた擬兵に騙され引き上げたという。
あまりにも出来過ぎた話しだと感じるが、義弘は伊東側の動向を探っていて事前に察知し、用意周到だったとされている。
この戦さで島津氏は三州統一への足掛かりになり、敗戦で主な将を失った伊東氏は勢力を失い、豊後の大友宗麟を頼り落ちのびていくことになる。
複雑な各兵の動きは、木崎原古戦場に掲示されている図がわかりやすいので引用させて頂く。
激戦の場となった三角田の地に、敵味方双方の戦死者の霊を供養するため、義弘が建立した六地蔵塔がある。伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出た。
後の1613年に建立された元巣塚。
当時、飯野地頭であった元巣が、木崎原古戦場戦死者の霊を弔うと共に自らの死後も案じたものだと考えられている。
三角田からちょっと離れた所に伊東軍の首塚がある。
島津軍は首実検の後、名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城に送り返し、その首は伊東塚に葬られた。その他の首は、この地に埋められ供養された。
島津の将兵が血刀を洗った太刀洗川。当時は水量も多かったようだが、現在は小川だった形跡がわかる程度で水量は全くない。
当初、ここから伊佐市の新納忠元ゆかりの地を廻って、鹿児島に帰省するつもりだったが、日没も近いので今回は断念した。
4/27/2018
祝吉御所跡・島津稲荷神社・月山日和城跡・春日神社
2018.4.6
都城歴史資料館から10分ほどで島津家発祥之地、祝吉御所跡に着いた。
島津御荘は1026年、太宰府大監 平季基が開発し、島津院と三俣院を中心に寄郡を広げて大荘園となる。季基が長元年間(1028~1037年)に関白の藤原頼通に寄進し、近衛関白領家とする一円荘となった。
時は下り1185年、惟宗忠久は源頼朝によって領家の島津御荘下司職、同荘八千町の惣地頭職、薩摩・大隈・日向の守護職に任命された。忠久が鎌倉より下向し、ここ祝吉に御所を構えたと伝えられる。
当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、島津御荘の中心であった。島津の姓はこの地に由来する。
ここから車で15分の位置にある島津稲荷神社は、1197年に島津忠久が創建したといわれている。
天文年間に北郷忠相が社殿を修復、庄内の乱後には島津義久が参詣したと伝承があり、長い間、武家の尊崇を受けてきた。
一の鳥居から赤い鳥居まで数百メートル参道が続き、赤い鳥居の左右には石灯籠が並ぶ。
現在の内神殿は、1729年に再建された彩色社殿。屋根につく木製鳥衾・破風板などはこの再建時よりも年代はさかのぼる。
歴史を感じるが、現在は老朽化が進み、やるせない感情を抱いてしまった。
車の中で食事を済ませ、高城郷土資料館へ。
月山日和城は、空堀に仕切られた八城郭からなる山城だったことがわかっていて、池之城跡に天守を模した高城郷土資料館が建てられている。
南北朝時代の元弘年間に、肝付兼重が築城した月山日和城(高城)。
南朝の特使として日向に下向し、三俣院高城を本拠として勇戦する肝付兼重に1337年、五辻宮守良親王から錦の御旗が授与された。
1339年、兼重はこの月山日和城に錦旗を奉じて立てこもり、畠山直顕の北朝方と壮絶な戦いを演じたが敗れ落城した。
その後は幾度となく城主が変わり、1534年に北郷忠相が伊東氏から奪還。さらに伊集院忠棟の諸城となるが、庄内の乱後、再び北郷氏の居城となり、一国一城令をむかえ廃城となった。
兼重の武功をたたえた肝付兼重公誠忠碑が内之城から移され、現在は高城郷土資料館前に建てられている。
高城郷土資料館から近くの春日神社へ。橙色の鳥居が異彩を放っていた。
由緒は説明板より抜粋する。
「この地方は、古くは島津壮三股院とよばれ、1026年ごろ、平季基から藤原頼通に寄進し近衛関白領となった。藤原氏は、氏神である奈良の春日神社を三股院の総鎮守としてここに祀り、別当寺として天台宗東竜寺を建てた。それは1078年ごろと推定されている。
1532年、島津忠朝・北郷忠相が伊東方の高城々主八代長門守を攻めたとき、この神社から白鳥2羽が飛び立ったので、島津方の士気大いにあがり大勝した。
その後、島津氏はこの神社を尊崇したという。」
鳥居脇に天正年間のものだという石仏や六地蔵。由緒ある神社にしては、バリケードがあまりにも切ない。
社殿に掲げられた前関白近衛信輔による「春日宮」の扁額が、高城郷土資料館に展示されている。
事前情報だと、北郷忠相夫婦の供養塔があるはず。しかし結局見つけられず…。時間もないので次の目的地、石山観音寺に向かうことにした。
4/17/2018
都城島津邸・都城島津家墓地・都之城跡
2018.4.6
今回の帰省は、宮崎にまで範囲を広げ、4日間で島津所縁の地を廻る。
初日は都城周辺の史跡巡り、えびの市にある木崎原古戦場、そして伊佐市を迂回して鹿児島に帰る予定。
都城市のホテルに前日入りしていたので、開場時間に合わせて都城島津邸へ向かう。良いのか悪いのか、午前中は島津雨。
1935年築の御門を入ると、左手に現在はカフェになっている石蔵、その横に剣道場、御門前は都城島津伝承館、中庭を挟んで本宅という配置。
この日は、示現流の演習があるらしく、ボランティアの人が準備に追われていたけど、11時までは待てないので今回はスルー。奥に見えるのが本宅。
入館料210円を払い、都城島津伝承館を見学。都城島津家に伝わる史料1万点が都城市へ寄贈され、保存・公開のため平成16年に開館した。島津氏の誕生から祝吉御所絵図、石田三成による九州征伐の戦後処理状、歴代北郷家当主の展示物などがあり、非常に興味深かった。
都城島津邸は、一時鹿児島に移っていた都城島津氏26代当主 島津久寛が都城に戻って建てたものらしい。それが1879年というから思いのほか新しい。また、閑院宮や昭和天皇の宿泊に備えて改築、増築が繰り返されている。
裏庭から撮った本宅。
観覧料100円を払い本宅内へ。
昭和天皇の宿泊のために造られた浴室、実際に使用した寝室、また食事を再現されたものなどを見学することができる。
都城島津邸から車で7分ぐらいで行ける龍峯寺は、島津本宗家の菩提寺福昌寺の末寺にあたる。都城領主第8代 北郷忠相が母(松庵妙椿大姉)の菩提供養のために建立し、起宗守興和尚(大姉の弟)によって開山された。以後、島津家の墓所となっている。
まず目に付くのが義烈塔。島津久静によって建立されたもので、初代 資忠から12代 忠能に至る間に戦死・殉死した家臣505人の名が刻まれている。
その義烈塔の横を上がって行くと、都城島津家墓地へ辿り着く。しかし、柵に鍵がかけられ、一般の立ち入りはできない様子だった。
年代ごとに分けられているそうだが略図的なのもなく、どれが何だかわからない。
みやざき文庫76から出版されている「都城島津家墓地 その歴史と変遷・全調査の記録」によると、北郷忠相の戒名は龍峰寺殿仙巌浄永大禅定門。意外にも門扉の中ではなく、参道の左手の第3区にその一致する標柱があった。
島津雨が止む気配もないので、ここから程近い都之城跡へ向かった。
南北朝時代、島津宗家4代当主 島津忠宗の嫡子 貞久が本宗家を継ぎ、他の兄弟が新納氏、和泉氏、樺山氏など本家を支える有力な分家となった。北郷氏もその一つで、忠宗の6男 資忠が北郷氏(都城島津氏)の始祖となって都城を治めた。
都之城は、1375年に2代 北郷義久によって築城され、1615年の一国一城令で廃城になるまで、北郷氏の居城となった。
都城を足利尊氏から与えられて以降、北郷家が領してきた土地だが、島津家が豊臣秀吉の九州征伐に降伏し、1595年に北郷家は祁答院へ移封された。そして、都城は豊臣政権から島津義久の家臣 伊集院忠棟に与えられる。
しかし家臣でありながら、あまりにも権力を持ち過ぎた忠棟に対して、島津忠恒(後の薩摩藩初代藩主)は、自ら斬殺するという事件を起した。
父を斬殺された伊集院忠真は、1599年この都之城に籠城し、島津本家と対立した庄内の乱が起こり、都城盆地はその舞台となった歴史がある。
庄内の乱後、伊集院氏は頴娃へ移され、北郷氏は都城の復帰を果たす。
この大手門(脇戸附櫓門 単層櫓)は、歴史資料館の城風様式に併せて建設されたもの。ここから本丸跡までしばらく歩かされ、その広大さを体感した。途中、空堀と書かれた看板があったけど、当時の遺構なのだろうか。
都之城本丸跡に築かれた都城歴史資料館。やり過ぎ感のある城郭風建造物は、当然復元したものではない。
入館料は大人210円。展示品は、時期的なのもあると思うが、戦国物目当てだったので物足りない印象だった。
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