4/27/2018
祝吉御所跡・島津稲荷神社・月山日和城跡・春日神社
2018.4.6
都城歴史資料館から10分ほどで島津家発祥之地、祝吉御所跡に着いた。
島津御荘は1026年、太宰府大監 平季基が開発し、島津院と三俣院を中心に寄郡を広げて大荘園となる。季基が長元年間(1028~1037年)に関白の藤原頼通に寄進し、近衛関白領家とする一円荘となった。
時は下り1185年、惟宗忠久は源頼朝によって領家の島津御荘下司職、同荘八千町の惣地頭職、薩摩・大隈・日向の守護職に任命された。忠久が鎌倉より下向し、ここ祝吉に御所を構えたと伝えられる。
当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、島津御荘の中心であった。島津の姓はこの地に由来する。
ここから車で15分の位置にある島津稲荷神社は、1197年に島津忠久が創建したといわれている。
天文年間に北郷忠相が社殿を修復、庄内の乱後には島津義久が参詣したと伝承があり、長い間、武家の尊崇を受けてきた。
一の鳥居から赤い鳥居まで数百メートル参道が続き、赤い鳥居の左右には石灯籠が並ぶ。
現在の内神殿は、1729年に再建された彩色社殿。屋根につく木製鳥衾・破風板などはこの再建時よりも年代はさかのぼる。
歴史を感じるが、現在は老朽化が進み、やるせない感情を抱いてしまった。
車の中で食事を済ませ、高城郷土資料館へ。
月山日和城は、空堀に仕切られた八城郭からなる山城だったことがわかっていて、池之城跡に天守を模した高城郷土資料館が建てられている。
南北朝時代の元弘年間に、肝付兼重が築城した月山日和城(高城)。
南朝の特使として日向に下向し、三俣院高城を本拠として勇戦する肝付兼重に1337年、五辻宮守良親王から錦の御旗が授与された。
1339年、兼重はこの月山日和城に錦旗を奉じて立てこもり、畠山直顕の北朝方と壮絶な戦いを演じたが敗れ落城した。
その後は幾度となく城主が変わり、1534年に北郷忠相が伊東氏から奪還。さらに伊集院忠棟の諸城となるが、庄内の乱後、再び北郷氏の居城となり、一国一城令をむかえ廃城となった。
兼重の武功をたたえた肝付兼重公誠忠碑が内之城から移され、現在は高城郷土資料館前に建てられている。
高城郷土資料館から近くの春日神社へ。橙色の鳥居が異彩を放っていた。
由緒は説明板より抜粋する。
「この地方は、古くは島津壮三股院とよばれ、1026年ごろ、平季基から藤原頼通に寄進し近衛関白領となった。藤原氏は、氏神である奈良の春日神社を三股院の総鎮守としてここに祀り、別当寺として天台宗東竜寺を建てた。それは1078年ごろと推定されている。
1532年、島津忠朝・北郷忠相が伊東方の高城々主八代長門守を攻めたとき、この神社から白鳥2羽が飛び立ったので、島津方の士気大いにあがり大勝した。
その後、島津氏はこの神社を尊崇したという。」
鳥居脇に天正年間のものだという石仏や六地蔵。由緒ある神社にしては、バリケードがあまりにも切ない。
社殿に掲げられた前関白近衛信輔による「春日宮」の扁額が、高城郷土資料館に展示されている。
事前情報だと、北郷忠相夫婦の供養塔があるはず。しかし結局見つけられず…。時間もないので次の目的地、石山観音寺に向かうことにした。
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