2019.5.3
京セラ国分工場から県道472号線を南に下った徳持庵跡に、島津義久の墓所が歩道に沿うようにある。
徳持庵は廃仏毀釈で廃寺となり、金襴の袋に納められていた分骨を、後世の1875年に埋葬した。その墓石には大國豊知主命と刻まれている。
背後に見える上井城跡は、上井覚兼の父 上井薫兼が薩摩国永吉地頭として移封されるまでの居城で、覚兼はここで幼少期を過ごした。
車で北へ約3分の金剛寺跡。
金剛寺は島津義久の祈願所として建てられた。5m以上ある三重の石塔は、義久の抜歯が納められたといわれている。
国分小学校の敷地にかつてあった舞鶴城。
関ヶ原の戦い後、徳川方の侵攻を恐れた島津義久は、国分をそれに対抗する地と定め築城に取り掛かった。1604年に完成すると、富隈城から舞鶴城へと移り住み、城下に碁盤の目をしき寒村だった地を整備。屋形造りではあるが、裏山の隼人城を後詰めとする立地にあった。
朱門は城内のものを移築したといわれているが詳細は不明。
現存する石垣と堀の一部が残る一方で、近年整備された歩道がアンバランスな印象を受ける。
舞鶴城跡から徒歩2~3分の遠寿寺跡に、島津義久夫人 円信院妙蓮の供養塔が残る。
菩提寺であった本成寺に葬られていたが、3女 亀寿が再興し遠寿寺と改名、種子島氏の宗派にならい法華宗の寺だった。当時は義久と妙蓮の位牌が安置されていたという。
岩屋の中に4基の供養塔、その前には由緒不明の宝篋印塔が建っている。
以前本能寺を訪れた時、信長公廟の左側に鎮座されている円信院妙蓮の石塔を偶然見つけた。三段構えで手前から徳川九代将軍家重夫人の供養塔、菅中納言局庸子の石碑、島津義久夫人の石塔の順に縦一列に並べられた3石塔。
いろいろ調べたところ、それは本能寺と種子島氏の関係にある。種子島氏12代当主 忠時、13代 恵時は上京し参詣した記録があって、本能寺に帰依していたことが知れる。
また住持の多くが種子島氏の出身だったようで、同寺再興の際は資金援助を種子島氏に頼ったともいわれている。
妙蓮は種子島氏14代当主 種子島時堯の娘。