7/05/2019
御石山・願成寺跡・島津忠将供養塔・総禅寺跡
2019.5.3
姶良ICを下りて、岩剣城跡を右手に5分ぐらいの重富漁場近くにある御石山へ。
竜ヶ水で自害した島津歳久の遺体はここで清められたという。その首は肥前名護屋城の豊臣秀吉の元に届けられ、胴体は総禅寺に葬られた。
民家につながる細い路地にその石塔がある。
ここから車で10分、願成寺跡へ。前列に3基並ぶ右後ろが新納旅庵の墓。
元々は栗野にあった願成寺を、1595年に島津義弘がここに移し建立させた。
肥後八代の荘厳寺の住職だった新納旅庵は、島津義弘にその見識を認められ還俗。関ヶ原の戦いに従軍し、伏見城への入城交渉、その戦後処理で講和に尽くし本領安堵に尽力した功績はあまりにも大きい。
1602年に大坂の薩摩屋敷で亡くなった。
願成寺跡から程近い島津忠将供養碑。民家の間に、こんもりと盛り上がった山の上にある。
1561年、肝付兼続との廻城の戦いで、竹原山の陣が襲撃を受けその救援に向かう途中、肝付方の伏兵に合い討死した。
子の島津以久は後に垂水を拝領し、垂水島津家が興る。そして、関ヶ原の戦いで戦死した島津豊久の旧領 佐土原は、幕府直轄領となっていたが、1603年に徳川家康の意で島津以久に与えられた。
約8分車で移動し、実窓寺公園の道路を挟んだ向かいの実窓磧へ。
加治木で亡くなった島津義弘の遺骸を福昌寺に運ぶ日に家臣7人が殉死した場所。
当時は、この事跡を記念する松が植えられたという。
次は総禅寺跡へ。一般墓地が併設されていて、その左奥の荒廃した一体に古い墓石が乱雑に並んでいる。
島津宗家8代当主 島津久豊の3男で、豊州家初代当主 島津季久が菩提寺として総禅寺を建立。後に島津家久(忠恒)が本城としようとした建昌城(当初は瓜生野城)を築いた人物としても知られる。
島津季久の墓。
島津義弘の娘 御屋地を妻にした豊州家6代 島津朝久。文禄の役に従軍し巨済島で病死した。
御屋地の墓。
また島津歳久の墓所跡でもある。自刃したあと首は豊臣秀吉のもとへ渡り、胴体がここに埋葬された。後に首と一体になって心岳寺へ、現在は日置島津家の菩提寺の大乗寺跡に改葬されている。
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