7/29/2019

加治木肝付氏墓・精矛神社・樺山氏墓石群・富隈城跡


2019.5.3

能仁寺跡から北へ5分ほどの東禅寺跡。左手一番奥にひっそり4基並ぶ加治木肝付氏墓。

相州家の島津貴久と薩州家の島津実久が宗家家督争いのなか、伊地知重貞が実久に加担したため、島津忠良は1527年に加治木城を攻め落とした。そして、戦功のあった肝付兼演が加治木の一部を治めることになった。
しかし1549年、兼演は蒲生氏・渋谷一族らと謀反を起こし、伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの島津軍が加治木城に攻め入った。初めて鉄砲が使われたというこの戦さに降伏した兼演だったが、貴久は再び1550年に加治木を与えた。



一番右の墓塔は、加治木肝付氏3代兼寛(利翁守益庵主)のものだと伝わる。他の石塔は2代 兼盛とその側室といわれるが、刻字がなく断定はできないという。



東禅寺跡のすぐ近くに精矛神社がある。

1869年、加治木島津屋形跡に造営された精矛神社。祭神 島津義弘の没300年にあたる1918年、加治木島津家の別邸 扇和園があった現在の地に遷座された。





文禄の役の際に朝鮮から持ち帰ってきた石臼。後ろには手洗鉢も。


これは朝鮮出兵の際、船の沈没を避けるため武器や食糧で船脚を沈め安定をはかり、帰りは手洗鉢や石臼を底荷として積み込まれたものだと伝わる。

なお、現在の宮司は加治木島津家13代 島津義秀さんが就かれている。



霧島に入って樺山氏墓石群を目指す。
下調べだと公民館裏手の山中にあるようだが、その入り口がなかなか見つからない。近隣の方々に尋ねたところ、ご好意で案内して頂いた。民家脇を入り、水路を渡ってすぐの分岐を左に行くルートをとる。右は私有地とのこと。

元々は4列ぐらい並んでて現在の形に整備されたらしんだけど、復旧の時にパズル状態でぐちゃぐちゃになったと仰っていた。



島津氏4代 忠宗の5男 資久を初代当主とする樺山氏。
9代 樺山善久の妻は島津忠良の娘 御隅、末娘は島津家久に嫁いでいたり、血縁的にも島津氏とのつながりが強かった支族である。

善久のものだといわれる墓は風化が進み、戒名の解読は難しい。



樺山善久(玄佐)は島津氏三州統一の功臣であり、著した玄佐自記は島津家の権力統一過程を如実に示す史料として貴重。

嫡男 忠副は蒲生氏との戦いで討ち死したため、家督を忠助(紹剣)が継承。忠助も紹剣自記を残している。



8分ほど車で移動し、富隈城跡へ。

1595年、豊臣政権に降伏した島津義久は龍伯と号し、隠居先として薩摩国との境に富隈城を築き内城から移り住んだ。城といっても防御機能の低い居館だったといわれている。



城跡は稲荷山公園として整備され、中腹には稲荷神社が鎮座。



義久が富隈に移住した年に、島津家の氏神 稲荷神を勧請して稲荷神社と称した。
その歴史は古く、1375年に大隅守護職 島津氏久が島津祖 島津忠久と夫人を合わせ祀った一ノ宮大明神が元になっている。

1604年、義久は国分に舞鶴城(国分城)を築いて移り住み、富隈城は廃城となった。
現在遺構として、肥後の石工が築いたと伝わる野面積みの石垣が西側と東側に残る。


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