7/01/2019
清泉寺跡・川田城跡 (2)・川田堂園供養塔群
2019.5.1
島津久章は、島津忠仍(久信)の第4子として生まれた。兄の島津久敏が垂水島津家5代当主を継ぎ、久章は垂水島津家から分家を興し新城島津家祖となる。
島津宗家16代当主 島津義久は男子に恵まれず、その娘 新城の血を引く忠仍は、本宗家を継いだ島津家久(忠恒)よりも血統的に優越していたため、家督争いが起こり毒殺されるまでに至る。またそれは子の久敏、久章にも及んでいった。
久章について、三国名勝図絵には「罪ありて川辺宝福寺に錮す。最後命して遠島に配す。」とあるが、犯した罪については言及されていない。清泉寺跡の説明板によると、島津宗家19代当主 島津光久の命を受け年頭の使者に立った際、紀州藩邸の玄関に駕籠を横付けするという不作法を犯したという。罪を問われ宝福寺に監禁され、清泉寺に移されていた久章に光久は、新納久親や市来家尚らを遣いとし、遠島の命を伝えた。
久章は命を奉じ本府に赴く道中、僕(しもべ) 三次が新納久親に斬りかかり逆に刺し殺されてしまう。罪が己に及ぶことを恐れ久章は抜刀し乱闘になったが、ついに壹岐幸伯に討ち取られた。
清泉寺跡には石垣が残っていて、先に見える金網の扉が入口になっている。
入ってすぐ左手に、清泉寺を開基した百済の僧 日羅上人の作と伝わる磨崖仏阿弥陀如来、そして応永年間に再興した覚卍和尚の墓などが見える。
日羅は坊津の一乗院、谷山の慈眼寺を開基したことでも知られるが、年代などはわかっていない。
途中、石段の右手に崩壊した囲垣があるが、ここで久章は弓射によって傷を負い自害した場所だと、三国名勝図絵とは異なる言い伝えもある。
石畳参道の突き当たりに島津大和守久章の墓、背後に家臣の墓碑。
入口に戻り川沿いをさらに行くと、妙有大姉磨崖仏や在家菩薩磨崖仏なども残存している。
2019.5.2
国道3号線から県道211号線に入って2~3分、左手に川田城跡が見えてくる。
空堀に区切られた5つの曲輪から成っていたようで、井戸跡や土塁が残っているらしい。
南九州城郭研究の縄張り図を参考にすると、看板の裏が虎口になっていて主郭に通じるようだ。
主郭と思われる曲輪に石垣が残存しているが、縄張り図を見る限りは後世のものと考えたほうがいい。
ここから竹藪の中に立ち入ってみた。しばらく進んでみたけど、同じような景観に方向感覚がなくなり、さらに前日の雨で滑りやすくこれ以上は断念。
舗装された道路に戻り、北側の堀切へ。
その先の深い空堀。
川田城跡から車で1、2分の川田堂園供養塔群へ移動。
川田氏の始祖 川田盛資が父や祖父の菩提を弔って建てたもので、鎌倉時代から室町時代の墓石が並ぶ。
ちなみに、川田氏11代 義秀から26代 佐徳までの室町時代から近世に至る川田氏累代墓石塔群は、川田川を挟んだところにある。
川田氏祖 盛資の墓。
その後ろに比志島祖 重賢(栄尊)の墓。
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