2019.6.28
清色城麓には、武家屋敷群のほか入来麓観光案内所や入来郷土館などの施設があり、1日潰れてしまいそうなので清色城の登城は諦めた。
まず入来麓観光案内所で情報収集し、清色城の城郭符と入来町の文化財という冊子を購入。
続いて目の前の入来郷土館へ。2Fの職員に声をかけて見学させてもらう規模のものだが、展示品は唐草十文字の陣羽織や入来文書(原本は東京大学に移管)のほか、29代 入来院公寛に島津久光の娘 於珍が輿入れの際、持参した長持などがあった。
唐草十文字は、1702年に島津氏20代 島津綱貴から与えられ、以降入来院本宗家の家紋となっている。
入来院地頭渋谷氏一族、入来院氏が代々居城とした清色城。
入来小学校前(お仮屋跡)の清色城の碑。
後日(2021.8.10)、宮之城へ向かう途中、前回登れなかった清色城跡に立ち寄ったので追記。
入来小学校正門階段前から尾迫馬場の方へ回り本丸を目指す。
シラス台地を空堀で区切った特徴があり、本丸と松尾城間の堀切はほぼ垂直の壁を成している。
本丸跡。
物見之段跡には、見張り台のものと思われる礎石。
さらに進むと入来小学校のプール横に出てくる。
居城とした清色城について、三国名勝図会には「宝治2年(1248年)の春、始めて入部し此清色城を治所とし其家累世居城せり。因て入来院、若くは清色を家號とす。」とある。しかしそれ以前に入来院頼宗が居城との記述があり、築城の時期は定まっていない。
島津宗家の家督をめぐる内紛が起こった戦国期、入来院氏当主は11代 入来院重聡。
守護職を狙う薩州家 島津実久と対立関係にあった島津宗家 島津勝久は、伊作家の島津忠良、島津貴久を頼った。これまで抵抗と服従を繰り返してきた入来院氏ではあるが、島津実久に所領を侵攻されていた入来院重聡は、島津宗家に味方し娘(雪窓夫人)を島津貴久に嫁がせ友好関係を結んでいる。後に三州統一を果たす義久、義弘、歳久の生母として知られる人物である。
後を継いだ入来院重朝、そして重嗣は度々島津宗家に叛いたがついに降伏し、本領である入来院以外の地を召し上げられた。その後は島津氏の勢力拡大に助力している。
しかし、1583年に亡くなった入来院氏14代 入来院重豊には男子がいなかったため、島津以久の子 重時が養子に入り家督を継いだ。これによって完全に島津氏一門に取り込まれることとなった。
清色城跡から樋脇川の清色橋を渡ったすぐ右手、入来院家の菩提寺であった寿昌寺跡。
江戸時代初期のものといわれる仁王像が残るが、それには下半身がない。ある人が切り取って石臼にしたためで、その人は仏罰を受け歩けなくなったという。
鳥居を背に左奥に見えているのが、お石塔と呼ばれる入来院領主家代々の墓地。不自然に整列した祠墓塔群は、1666年にここに移された寄せ墓である。
入来院氏初代 定心と夫人の墓。
入来院氏15代 入来院重時と夫人の墓。
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