4/05/2020

薩摩島津伏見屋敷跡・島津以久屋敷跡・伏見城・大雲院


2019.9.28

大黒寺から徒歩3分、濠川の下板橋を渡ったところに薩摩島津伏見屋敷跡の碑がある。



江戸時代はじめに建設され、参勤交代で薩摩と江戸を往復する際、当主の滞在地として使用された。
また篤姫が13代将軍 徳川家定の嫁ぐため江戸へ向かう途中、宿舎としたことでも知られる。さらに1866年には、寺田屋で伏見奉行所役人の襲撃を受けた坂本龍馬が避難した場所でもある。


薩摩島津伏見屋敷跡から新高瀬川を跨いだ所に、島津兵庫頭(義弘)の屋敷があった。豊臣時代に島津本家は2つの屋敷を持っていたことから、下之御屋形と考えるのが妥当だろうか。伏見桃山御殿御城之画図によれば、北側に石田三成の屋敷もあった一帯だが、現在それを感じとれる遺構などはない。




三栖公園前まで歩き、市バス南8系統で丹波橋で下車、さらに徒歩約7分で桃山島津児童公園着。



伏見城西側にあたるここは、島津以久(右馬頭)の屋敷があった場所だといわれている。しかし分家にしては規模が大きいことから、島津本家の上之御屋形との見解もあり定まっていない。

伏見屋敷といえば、1599年に島津忠恒が筆頭家老 伊集院忠棟(幸侃)を斬殺したことで知られる場所。ここが現場になった可能性もある。その後、国許では島津本家と伊集院忠真が対立し庄内の乱へと発展した。



伏見桃山城キャッスルランドの施設として建設された模擬天守。



木幡山伏見城は、豊臣秀吉によって1597年に築かれた。没後、豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康が入城し政務を執った。
そして、また五大老の一人である上杉景勝が領内整備に勤しむなか、家康は謀反の疑いをかけ上洛を促す。これに従わなかったことで、会津征伐に乗り出すことになる。その出兵前に家康は、島津義弘に伏見城在番を要請していたという。ところが親書がない理由で、留守居を任されていた鳥居元忠は島津軍の入城を拒否。
居場所をなくした義弘は、家康不在の機に挙兵した石田三成の誘わるがまま、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城攻めに加わって松丸口を攻略している。

現在、伏見桃山陵となっている辺りが、木幡山伏見城の跡地だといわれている。



2019.9.29

京都駅北大路バスターミナルD2乗り場から206系統で19分、東山安井で下車。
八坂神社近くの大雲院へ。



墓所の門正面に、丸に十字があしらわれた石扉で囲われた一画がある。



その正面2基の右側が島津以久の墓。左右のそれぞれ4基は、佐土原島津家歴代藩主の墓か殉死者なのかよくわかっていない。
以久は薩摩藩の支藩である佐土原藩初代藩主。丹波国篠山城の普請が命じられ、上洛中だった1610年に病死した。



墓所前の佐土原藩戦没招魂塚および顕彰碑は、もともと寺町通りの一角に建っていたが、風化荒廃が甚だしく、大雲院に復元移転された。

 

3/02/2020

即宗院・大黒寺


2019.9.28

東福寺塔頭の一つである即宗院は、島津氏6代当主(奥州家初代) 島津氏久の菩提のため1387年に創設された。氏久の法名である齢岳玄久即宗院に因んだもので、以降は薩摩藩の菩提寺となる。
室町時代に焼失したが、関白 藤原兼実が営んだ月輪殿という山荘があった現在地に1613年に再建された。

しかし残念ながら一般非公開とのこと。



特に幕末の頃に関わりが深く、篤姫が薩摩から江戸へ上る道中、即宗院に滞在したことで知られ、また生麦でリチャードソンを斬りつけた奈良原喜左衛門の墓などがある。
その他、薩摩藩士東征戦亡之碑は明治維新の鴻業が成就すると、戦死した薩摩藩士524人の功を讃えるため、総師であった西郷隆盛がその事績を顕彰し建碑した。



阪急電車 丹波橋駅から徒歩5分ほどの大黒寺。

薩摩藩邸に近かった長福寺に、島津家の守り本尊である大黒天像が安置されていたことから、薩摩藩の祈祷所と定められ、1615年に長福寺から大黒寺へ改められた。



丸に十字があしらわれた屋根瓦。



本堂裏は墓地となっていて、薩摩藩に関わる墓が一画を占めている。

1862年、公武合体を推進していた薩摩藩国父 島津久光が、尊皇攘夷派の薩摩藩士を粛清した寺田屋騒動が起こった。この同志討ちで亡くなった有馬新七ら9人を弔うために、西郷隆盛が建てた伏見寺田屋殉難九烈士之墓。



薩摩藩家老 平田靱負は、美濃国 木曽川治水工事の総奉行として幕府の御手伝普請を成し遂げた。しかし莫大な借金と多くの犠牲者を出した責任を取り自刃。亡骸は京都伏見に運ばれ、大黒寺に葬られた。



本堂左手、宝暦治水工事に従事した薩摩義士の功績を讃える碑。

2/24/2020

薩摩屋敷之址・浄福寺・一条戻橋


2019.9.27

2泊3日の京都旅。
市バス205系統 四条河原町で下車。

大雲院跡の島津以久の墓を探すも、跡地は火除天満宮となっていて場所が違うようだ。とりあえず近くの薩摩屋敷跡へ向かことにした。


江戸時代の諸国大名は、江戸とともに京都の市中にも藩の出先機関として藩邸を構えていた。
松平(島津)薩摩守の京屋敷は、現在の大丸一体がそれで、裏に薩摩屋敷之址の石柱が建っている。
18世紀初頭から廃邸となった1870年までの約160年間に渡り、代々薩摩守の京屋敷であった。当初、藩邸の入口は錦小路通りにあり、後に東洞院通りにも拡張されている。




市バス59系統 今出川浄福寺で下車、浄福寺へ向かう。

別名の赤門寺という名称は、朱塗りが施された赤門(東門)に由来する。



本堂。



1592年、薩摩湯之尾の地頭 梅北国兼は朝鮮出兵(文禄の役)の途上、謀略をはかり肥後国佐敷城を占拠した。
九州征伐の遺恨、朝鮮出兵に対する反旗、または豊臣秀吉を討つための挙兵など、現代でも見解は様々。この反乱はわずか数日で鎮圧されたとされてきたが、近年の研究で占拠は15日間に及び、軍勢は2000人にまで膨れ上がったといわれている。各地への拡散を懸念した豊臣政権が小規模に改ざんした説にも合点がいく。

梅北一揆に島津歳久の家臣が従事していたことで、歳久が黒幕として疑われた。豊臣秀吉は当主 島津義久に弟の歳久の首を刎ねるよう命じる。そして歳久は竜ヶ水で自害し果て、首は肥前名護屋城の秀吉に届けられた。
さらに京都の一条戻橋でさらし首にされる。このとき在京していた島津忠長は、市来家家臣に盗みとらせ浄福寺に埋葬した。

浄福寺から徒歩10分ぐらいの距離に一条戻橋がある。


1/12/2020

住吉大社


2019.7.15

前日の諸用のため大阪に一泊。

心斎橋からなんば駅で南海本線に乗り換え5駅、10分ぐらいで住吉大社駅に着いた。



反橋を渡って左に行くと、誕生石の看板が見える。





誕生石。



説明板全文。
「丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ殺害されるところを家臣の本田次郎親経によって難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。これを知った住吉の神人田中光宗は湯茶を出して湯薬をすすめて介抱し保護したという。是を知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二ヵ国をあてられた。
これが島津氏の初代 島津三郎忠久公である。この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ、誕生石の聖地に垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。」


誕生石近くの祈祷殿で御朱印を戴く。



また、関ヶ原の戦いで西軍についた島津義弘が、後に島津の退き口といわれる敵中突破を敢行し薩摩への帰路、ここ住吉大社に立ち寄り、騎乗していた愛馬を神馬として献じたとも言い伝えられている。

1/09/2020

郡山八幡神社・菱刈氏歴代の墓・永福寺・六地蔵塔・向花山崎霊園


2019.6.28

菱刈氏は始祖となる重妙が、後白河天皇から菱刈郡両院(太良院、牛屎院)を賜わり、1193年に源頼朝の命によって京都より下向したことに興る。
その菱刈重妙は、宇治平等院と縁故があったため平安文化を取り入れ、本城(太良城)を北薩における拠点として繁栄させた。



大隅合戦以降、島津宗家に恭順を示していた菱刈家15代当主 重猛が1566年に亡くなると、まだ幼い鶴千代(菱刈重広)の家督代として弟の菱刈隆秋が就いた。すると相良氏を後盾に再び反旗を翻す。これに島津貴久は菱刈氏討伐を決行し、わずか2日で馬越城を陥すと、菱刈方は本拠の太良城をはじめ八城を放棄して大口城に立て籠った。
大口城周辺では一進一退が繰り返され、堂崎では島津義弘軍を退け、家老 川上久朗に深傷を負わせるほどの抵抗をみせている。
1569年、長期の籠城戦に島津家久と新納忠元は、荷駄を囮に敵兵を大口城から誘き出し、伏兵をもって挟撃する策を講じた。この戦略で大敗を喫した菱刈方は、3ヶ月後に島津軍が行なった大口城攻めに耐えられず、ついに菱刈隆秋は相良義陽の勧めに和を請い、降伏して大口城を明け渡した。
戦後処理で鶴千代に曽木城が安堵され、功績のあった新納忠元は大口城の城代に任じられた。
そして残る反島津勢力の東郷重尚、入来院重豊が降伏し薩摩平定を成し遂げた。


太良城跡から東に位置する瓜之峰にある菱刈氏歴代の墓。



西川曹源寺跡から移設されたものもあるようだが、菱刈氏当主の墓として最も古い14代 重州の墓。



菱刈氏15代 重猛(左)と16代 重広(右)の墓。




伊佐市菱刈市山の永福寺跡にある町田久倍の墓。



町田氏18代 久倍は菱刈氏討伐で、菱刈氏家臣 有屋田源四郎を討ち取るなどの功により、1570年に市山地頭に任ぜられ市山城主となっている。伊集院地頭になる1578年までここ市山に在住した。
1600年に播磨国明石で亡くなり、母と同じ永福寺に眠るとされるので、石欄に中のもう1基の宝篋印塔はその母のものだと考えられる。



2019.6.29

あけぼの幼稚園と民家の間の道を抜け、左に山道をしばらく行くと、小野領主 園田清左衛門実明の屋敷跡があり、現在は聖宮の六地蔵塔が建っている。



1404年に島津氏8代 久豊から拝領して以来、幕末まで代々園田氏の屋敷があったという。
1526年、島津貴久は島津氏14代 勝久(忠兼)の養子に迎えられ、島津本宗家の家督を継承し清水城を居城とした。これに不満に持った薩州家 島津実久は、島津忠良方の一宇治城、日置城、谷山城を陥し清水城にまで迫った。この時、島津貴久と共に城を脱した8人のうちの1人が園田実明で、小野の屋敷に匿い追手からの追跡を回避し、貴久は無事に田布施(亀ヶ城)に逃れた。そして実久は勝久に守護職を復権させている。
また後年、川で大根を洗っていた園田実明の娘(宰相夫人)を島津義弘が見初め、後妻に迎えた話しはよく知られている。ただ下級武士の家柄だったということで、広瀬助宗の養女となって嫁いだようである。広瀬夫人ともいわれるのはそのため。


園田実明屋敷跡の近くには、島津貴久が、1560年頃建てた六地蔵塔がもう一基ある。敵味方関係なく戦死者の霊を弔うためのもので、6面にそれぞれ地蔵尊を刻んだ石塔は50基余にも及ぶという。




復興中の鶴丸城御楼門を横目に空港へと向かう。




ちょうど今日から尚古集成館 別館で、「戦国大名島津氏展」が開催されていたため立ち寄った。
印象に残った展示物は、伝 島津豊久所用の紺糸威腹巻、関ヶ原の退き口で柏木源藤が井伊直政を撃った銃など。




向花山崎霊園にある島津氏家老 山田有信の供養塔。
小丸川とその支流である切原川に挟まれた高城の城主で、1578年の大友宗麟との耳川の戦い(高城川合戦)、1587年の豊臣秀吉の九州征伐(根白坂の戦い)と2度の大合戦でも落城しなかった名将として語り継がれている。嫡男は山田有栄。