12/13/2021

松尾城跡・勝栗神社


2021.8.12 (2)

豊臣政権の九州平定により島津氏16代当主であった島津義久に薩摩国、義弘に大隅国、久保に日向国真幸院が安堵された。それに伴い1590年、義弘は日向国飯野城から大隅国松尾城(栗野城)に居所を移した。

その搦手口を入ってすぐの猫の祠。



義弘が朝鮮出兵の際、猫の瞳孔の開き具合から時刻を判断し、戦さに活かしたというのはよく知られた話。しかし祠までの行き方がよくわからなかった。


現在、グラウンドなど城山運動公園として整備され、松尾城には車でのアクセスが可能。主郭部には、かつて代官城(曲輪)だった辺りが弓道場で、横の駐車場を利用する。

南御門跡の模擬門を入って左手が本丸跡。



南九州では見慣れない野面積みの石垣は、江戸城を築城した太田道灌の子孫といわれる太田武篇之助が築いたと伝わる。




松尾城址の碑。



本丸跡と二の丸跡には館の礎石が残っていて、当時は双方を往来する板橋が架けられていたという。



二の丸跡は模擬門をまっすぐ行った右手。



本丸南東の研屋敷、外曲輪跡には遊具が設置され公園となっている。
説明板の縄張り図によると本丸の北に川内川、東に代官所堀、南には大谷堀、新城堀が巡らされ、堅固で広大な城郭だったことがわかる。



また現代に伝わる薩摩焼は、慶長の役で朝鮮の陶工を連れ帰り、窯を築いたことが始まりという説もあるが、ここ松尾城から窯詰めに使われる道具が発掘されたことで、義弘の在城期間つまり文禄の役後とするのが妥当。



文禄の役に出兵前、御首途の儀(出陣式)を執り行なった正若宮八幡社。




明治に入り勝栗神社と改称。本殿横に島津義弘公歌碑があり、「野も山も みな白旗と なりにけり 今宵の宿は 勝栗の里」と詠んだ古事に由来する。



鹿児島市内に戻り、鶴丸城跡の黎明館で開催されている「南北朝の動乱と南九州の武士たち」を観覧。3日目終了。



翌日空港へ向かう途中、蒲生麓に立ち寄り。武家屋敷通り。



蒲生観光交流センターにて情報収集。無料配布の毎月発行されている蒲生町史談会だよりは興味深く、冊子としてまとめてもらいたいほど内容が濃い。

この日は特に大雨でゆっくり観光できなかったし、また機会があれば訪れたい。

12/05/2021

加久藤城跡・白鳥神社・飯野城跡・伊東塚


2021.8.12 (1)

えびのICを下りてすぐの「道のえき えびの」に、島津義弘公之像が数年前に建てられた。今日は木崎原合戦関連の史跡をまわる。



記録的な大雨にもめげず加久藤城跡へ。以前、木崎原古戦場を訪れた時は日没で断念したため、大雨でも苦にならなかった。

1564年、島津氏15代 貴久は真幸院領主 北原兼親を伊集院神殿村に移し、島津義弘を伊東氏との最前線となる真幸院に入れた。
そして義弘は、北原氏によって築かれた久藤城を増改築、加久藤城と改称。老臣 川上忠智を城代とし、広瀬夫人と嫡子の鶴寿丸を住まわせ、義弘自身は飯野城を居城とした。

大手門跡。



大手門跡から上がっていくと、枡形曲輪の前に加久藤城跡の標柱が建っている。



掲示された縄張り図からすると、本丸跡は竃門神社が鎮座し一部は久藤梅園となっている。義弘が城内守護のために勧請したと伝わり、後に竃門神社と改称された。



本丸跡東側の二之丸跡。




1572年、日向国真幸院の覇権を争い、島津氏と伊東氏の間で起こった木崎原の戦い。
総大将 伊東祐安が3000の兵を率いて三ツ山城を出立。妙見原で二手に分かれ、伊東祐信と伊東又次郎らが飯野城を迂回し加久藤城へ進軍した。この知らせに義弘は遠矢良賢の援軍を送り、伏兵を配置するなど300の手勢を分散、自らは二八坂に陣を構えた。あまりにも計算し尽くされた策略に思えるが、事前に義弘が伊東氏領内に送り込んだ盲僧から情報を得ていたという。
また忍ばせた女中により、加久藤城の弱点が鑰掛口であるとの偽情報に騙された伊東軍は、実は狭隘な難所から攻め入ったことになる。

まず加久藤城西側にある樺山浄慶の屋敷を攻め、鑰掛口を攻め倦ねている間に川上忠智が加久藤城内から出撃、飯野城から遠矢良賢の援軍も到着すると伊東軍は鳥越城跡へと後退した。
そこに義弘本隊が攻め込み、三角田で両軍が交戦。不意をつかれた伊東軍は有力な武将を討ち取られている。

そして白鳥山を越えるルートで高原城へ退却を始めた。しかし白鳥権現社別当寺満足寺座主 光巌上人が僧侶を率いて農民らと白幟を立て伏兵を装い、これに混乱した伊東軍は、木崎原へと引き返そうとした。そこに義弘本隊が再び襲撃、一時は木崎原へと押し戻されたが、背後に回り込んでいた鎌田政年の兵、側面から五代友喜の伏兵によって伊東軍は壊滅的な攻撃を受け敗走した。

実際に現地を訪れてみて、白鳥神社や決戦の場となった三角田、加久藤城と飯野城の位置関係など、かなり広範囲に及んだ合戦だったと実感。


白鳥神社拝殿。



次は飯野城跡(亀城公園)へ。遠景。



大手口の冠木門から登上。



駐車場になっている射場に駐車。ここが各曲輪への分岐になっていて、加久藤城に続く約4kmの連絡道の起点でもある。本丸と西側の物見曲輪はよく整備されているが二の丸、三の丸、東側の物見曲輪への行先表示はあるものの、草が生い茂り進むことはできなかった。

別名を亀城ともいい、本丸跡の城趾之碑には亀城と刻まれている。




枡形曲輪。右の小高いのは物見曲輪。



物見曲輪からの眺め。川内川。



2022.1/28

木崎原合戦で戦死した大将の伊東加賀守ら、伊東氏の家臣220人余を葬り、後に伊東塚と呼ばれるようになった。



多くの供養塔は失われ、現存は9基を残すのみ。左から2基目が伊東新次郎の供養塔。



五輪塔は島津の武将 五代勝左衛門の子孫が、1650年に建立したものだという。


11/25/2021

稲荷神社・清水城跡 (2)・東福寺城跡 (2)


2021.8.11

鹿児島五社の一社である稲荷神社を参拝。
島津本家15代 島津貴久の時代に清水城麓に遷座された。
社殿。



1598年、朝鮮出兵(慶長の役)の折、島津義弘が5千の兵で拠る泗川新城へ20万の明・朝鮮連合軍が押し寄せたとき、白狐1匹と赤狐2匹が松明をくわえ、敵勢に駆け入り火薬庫に点火し自爆した。そして混乱する明の大軍に島津軍が城から打って出て、連合軍を撃滅させた。(兵力には誇張があると思われるが碑文による。)
この狐は赤糸威、白糸威の鎧を纏った武者ではあるが、島津義弘は代々島津家が信仰する狐に比喩したという。
社殿前には白狐と赤狐の像が祀られ、その武功を讃え佐竹光明坊、瀬戸口重治、市来家綱の顕彰碑が建てられている。

泗川新寨戦三勇士之碑。




前回、清水城跡へ「たんたど」バス停からの登城口がわからず、さらに搦手口は竹薮に行く手を阻まれ断念したので、今回は稲荷口からの登城を試みる。



湧水横の石段を登り、右手の腰曲輪から南曲輪群を目指すが、雨と方向感覚に悩まされ再び断念。



多賀山公園(東福寺城跡)から見た清水城跡遠景。




こちらも数回訪れている多賀山公園で新たな発見があった。
近年整備された歩道の壁が、古い石垣を被せるように石積みされている。ちょうど肝付兼重卿奮戦之跡の石碑向かいの角には隅切りがされてあって、鬼門除けと思われるけど北東というよりは東に近い。





浜崎城内にある多賀神社。
1579年、島津義久が近江国多賀大社の祭神を分霊し城内に創建。以降、一帯は多賀山と呼ばれるようになったという。


9/01/2021

大願寺跡石塔群・平佐北郷家墓地・兼喜神社


2021.8.10 (2)

大願寺は祁答院氏菩提寺で、開山堂跡と薬師堂跡から成る大願寺跡石塔群に、それぞれ歴代領主の墓塔がある。近年、大願寺の住職を室町幕府が任命する古文書が見つかり、京との結びつきがあったことが証明された。

開山堂跡には祁答院氏4代 行重、5代 重実の墓塔がある。



国道267号線をちょっと北上した薬師堂跡に祁答院氏7代 重茂、8代久重、9代 徳重、11代 重貴、12代 重武、13代 良重の墓がある。中央が12代 重武、左手前が13代 良重の墓塔。



大隅合戦で島津軍を岩剣城で迎え撃ったことで知られる祁答院良重。加治木城を攻めていた蒲生勢が救援に向かうも退けられ、それでも抵抗を続けた良重だったが岩剣城は落とされた。その後、虎居城に退き蒲生範清も島津貴久に降伏。そして1566年に良重が室 虎姫によって刺殺され、嫡子 重経を岩剣城の戦いで亡くしていた祁答院氏は13代で途絶えた。



薩摩川内市へ移動。泰平寺から川内川を隔てた平佐西小学校へ。

島津宗家4代忠宗の子 資忠を祖とする北郷氏は代々都城を領していたが、10代 時久が1595年の所領替えによって宮之城に移封された。3男 三久は平佐に封じられ、平佐北郷家を興し平佐城を居城とした。
その本丸跡は平佐西小学校の敷地になっていて、城趾之碑が線路側の門右手にある。




また平佐城の一部で東に位置する庵之城に三久が父 時久の菩提寺として、1596年に梁月寺を創建した。その跡地は平佐北郷家墓地になっている。

平佐北郷家の家紋 角丁子を施した門柱。



初代領主 三久の墓碑は祠に納められた五輪塔。三久は島津氏の小田原征伐、朝鮮出兵、庄内の乱に従軍。北郷氏宗家の長千代丸(12代 忠能)がまだ幼かったため家督代を務めた。



江戸で亡くなった11代 久敬の墓塔。杉並区の大圓寺にも五輪塔がある。




北郷宗家10代 時久に叛意を疑われた相久が無実を訴え、自刃した非業の死を哀れみ、弟の三久が御霊を勧請し若宮八幡を創建した。後に兼喜神社と改称、13代 久信によって再興された。



また相久の室 御屋地は島津義弘の娘で、後に豊州島津家の島津朝久と再婚している。

8/29/2021

虎居城跡・宗功寺跡・興全寺墓地


2021.8.10 (1)

1248年に渋谷重保が相模国から下向し、地名の祁答院を名乗り、13 祁答院良重までが居城とした虎居城。
川内川の湾曲部を自然の堀とした地形から度々洪水が起こり、現在は推込分水路の整備が行われ、宮之城中学校側と完全に分断された。北端の川の瀬は八女の瀬と呼ばれ、祁答院氏9代 徳重の娘と7人の侍女が川内川で溺死したことに由来する。

虎居城跡遠景。



祁答院氏が13代で途絶えると、しばらく城主不在が続き、1580年に島津歳久が虎居城に入った。ほぼ九州全土を支配下においた島津氏だったが、1587年、豊臣秀吉の九州征伐に島津義久は降伏した。しかし歳久は抵抗を続け服従していない。秀吉の虎居城への入城拒否、帰途の籠に家臣が矢を射るなど秀吉の怒りを買った。極めつけは家臣が起こした梅北一揆で、その責任を取らされ自刃に追い込まれた。

領主としても慕われていた歳久の供養塔は各地に点在するが、その一つが城之口公民館前にある島津金吾歳久供養塔群。



歳久の次に虎居城主になったのは、1595年に都城から宮之城へ移封された北郷時久。
その後、島津宗家と伊集院氏との間で起こった庄内の乱の恩賞で、北郷氏は旧領への復帰を果たしている。
そして1600年、島津尚久の嫡男 島津忠長が虎居城に入り、代々宮之城島津家が城主を務め、明治維新後は華族に列し、国家に勲功ある者として男爵の爵位が与えられた。


虎居城跡の対岸にある宗功寺公園。
宮之城島津家2代 島津忠長が、京都妙心寺の末寺として創建した宗功寺。同家の菩提寺でもある。跡地は宮之城島津家墓所になっていて、忠長以降の石廟が建ち並ぶ。祠堂型の壮大な造りで、細かく彫刻されているのも特徴。
ちなみに初代 尚久の墓石も祠堂型で加世田の竹田神社にある。

再構された鳥居が1997年の地震で壊れ、現在は一部の柱脚と基礎のみが残る。



鳥居を入って左手の亀趺碑。その碑文は、5代 久竹が4代 久通までの功績を称えたものだという。



宝篋印塔の忠長の墓。



背後には殉死した家臣の尾辻次郎兵衛と塩田分太左衛門の墓石がある。



豊臣秀吉の九州征伐に降伏後、忠長は人質として京に上がった。従兄弟にあたる島津歳久の首が一条戻橋に晒された際、家臣にその首を奪い取らせ近くの浄福寺に埋葬した。
また関ヶ原の戦後処理では島津家存続に奔走し、戦さの武功以外でも功績を残している。

7代 島津久方の墓。
6代 久洪には跡継ぎがおらず、薩摩藩主3代 島津綱貴の子である久方が養子に入り7代目を継いだ。本家の血が入ったためか、宮之城島津家の家格は一所持に格上げされている。



3代 島津久元の墓。
忠長嫡男 忠倍が若くして亡くなり、新納家の養子に入っていた久元が戻って3代目に就いた。また妻の御下は島津義弘の娘で、前夫の伊集院忠真が殺害された後に久元と再婚、そして化粧料で佐志の地が与えられた。




御下の墓は佐志小学校近くの興全寺墓地にある。