3/27/2023

志布志城跡


2022.12.28 (2)

志布志小学校裏門横、市観光駐車場に車を停めて志布志城跡へ。
内城、松尾城、高城、新城から成るシラス台地の特性を活かした南九州型城郭で、現在は内城と松尾城の登城が可能。

志布志城の築城時期はよくわかっていないが、1336年に肝付氏が重久篤兼に攻められたという記録が最も古いらしい。その後、楡井氏から畠山氏へ、さらに新納氏、豊州家島津氏、肝付氏、島津氏と城主を代えていった。

内城跡遠景。



内城大手口から入り、右手の矢倉場に明治時代に建て直された新納時久の供養塔がある。



島津氏4代 忠宗の4男で新納氏初代。子の2代 実久が畠山直顕を撃退した1357年から、約180年に渡り新納氏が志布志を治めた。南北朝期は本丸と矢倉場しかなく、新納氏の時代に中野久尾と大野久尾、麓に居館を築き拡大していった。

矢倉場からは建造物の遺構が見つかっている。



ここから本丸へ向かう空堀。



本丸跡。島津氏6代 氏久の居城でもあった。



新納氏の守護神として祀られた三宝荒神。



本丸の土塁。



本丸下段曲輪の虎口。



1458年、日向の伊東氏に備え、島津氏9代 忠国は新納氏5代 忠続に飫肥城を守らせ、志布志城を新納是久と忠明に守らせた。またさらなる備えとして、島津氏10代 立久が櫛間城に島津伊作家の久逸を入れた。しかし久逸が伊東氏に協調する動きをみせたため、新納氏は久逸を伊作へ戻そうと策略する。これを不服とした久逸は反乱を起こした。
娘(常盤)を伊作家の島津善久に嫁がせていた是久は久逸につき、身内の忠続と敵対関係となり戦うことになる。
この戦さに敗れた善久は常盤を連れ本領へと戻った。


大野久尾へ通じる中野久尾の空堀。



搦手口へ抜ける空堀を通って下城。




一旦、駐車場まで戻り松尾城跡へ。
松尾城跡遠景。



曲輪の虎口に石積みが残る。



楡井頼仲の碑。



頼仲は、志布志城のなかで最初に造られたとされる松尾城を拠点として、北朝方と戦ったが日向守護職に任じられた畠山直顕に敗れた。1357年、宝池庵(現在の大慈寺)で自害。
大慈寺境内に墓がある。


JR志布志駅近くの総合観光案内所で入手した城郭符3種。


3/12/2023

大慈寺・即心院跡・肝付兼続追善塔


2022.12.28 (1)

今日は志布志へ。なかなか来ることもできないので、あわよくば飫肥城跡もと思ったけど、日帰りではやはり時間的に厳しいので志布志に絞る。

志布志市埋蔵文化財センターで情報収集。志布志城(内城)を復元したジオラマは、1574年を想定しているようなので、島津氏統治前の肝付氏在城時ということになる。




車を小西地区駐輪駐車場に停め、徒歩で周辺をまわる。まずは1340年に松尾城主 楡井頼仲が創建した大慈寺へ。

拝殿の賽銭箱には丸に十字が施されている。



大慈寺の龍雲は、1608年に広済寺の雪岑と共に琉球に渡り服属の交渉にあたった。

社務所で御朱印をいただいた。





次は即心院跡の島津氏久夫婦の墓。



即心院は大慈寺内にあった塔頭の1つで、島津氏6代(奥州家初代) 氏久が建立し自らの花香所と定めた。志布志城入城は1365年頃と考えられ、島津氏7代 元久が清水城に移るまで、奥州島津家が大隅守護として志布志を治めた。


近くの公園の一画、1782年に建てられた肝付兼続の追善塔がある。



肝付氏16代として島津氏に対抗した兼続は、豊州島津家を破り志布志を治めた。島津忠良の娘 御南を正室に迎え、島津氏と友好関係を結ぼうとしたが決裂。隠居所とした志布志で没した。

3/11/2023

蒲生八幡神社・竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟・蒲生城跡 (2)


2022.12.27

今日は蒲生方面に向かい、松坂城と北村城に登城の予定。道中いろいろ立ち寄った。

蒲生氏初代 舜清が1123年に宇佐八幡宮から勧請して創建した蒲生八幡神社。



1557年、蒲生氏17代 範清は島津氏に降伏し、蒲生には比志島美濃守が入った。その後、社殿を島津義弘が1618年に再興、後の薩摩藩主からも崇敬された。



境内横には戦没者記念碑群があり、その中に庚申供養碑(関ヶ原記念碑)がある。



時の蒲生地頭 阿多長寿院盛淳は蒲生衆を引き連れ、大垣に在陣していた義弘の元へ駆けつけた。そして関ヶ原の戦いでは身代わりとなって討死している。

社務所で書置きの御朱印をいただいた。




次は蒲生城の北東部に位置する竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟へ。



岩壁に刻まれた梵字は120mに及び、鎌倉中期またはそれ以前に成立したと伝わる。数日雨は降っていなかったと思うが、ヌカるんでいて苦労した。





肝心の松坂城と北村城はというと、2時間ほど登城口を探しても結局わからず諦めることにした。

探している最中にみつけた掛橋坂。藺牟田、祁答院と蒲生を結ぶ地方街道の峠道に敷かれた石畳道。




1556年、島津貴久が蒲生氏の松坂城を攻め落とすと、蒲生方の援軍として菱刈重豊が陣を布いた。その菱刈陣遠景。




せっかくなので蒲生城跡を再訪。今回は本丸の草刈りがされていて遺構が見れてよかった。

5段連郭から成る本丸の4段目仕切門跡。




最上段本丸の仕切門跡にわずかに残る石積み。



土塁。



本丸曲輪群の先の開けた曲輪は馬術の訓練場だった馬場跡。


3/06/2023

島津斉彬御陣屋跡・天保山砲台跡・新波止砲台跡


2022.12.26

天保山中学校内に、島津斉彬御陣屋跡の碑がある。



幕末、幕政改革のため3000人規模の率兵上洛を計画していた島津氏28代 斉彬。1858年7月8日に城下の諸隊を集め、天保山調練場で合同軍事演習を行なった。体調が悪かった斉彬だが、炎天下のなか終日の訓練強行がたたり、その夜に発熱し同月16日に非業の死を遂げる。

兄 斉彬の遺志を引き継いだ久光は、1862年に兵を率いて上洛を果たした。勅使とともに江戸に入った久光は幕政改革に乗り出す。
そして任を終え江戸から京への帰途、久光一行は武蔵国生麦村でイギリス人を殺傷する事件を起こした。この生麦事件に対して、イギリスは犯人の処罰と賠償金を要求。しかし交渉は難航し、翌1863年に7隻のイギリス艦隊が錦江湾に入り威圧した。そして3隻の薩船が拿捕されたのを機に、天保山から砲撃が行われ薩英戦争へと至った。


天保山公園の天保山砲台跡。




島津氏27代 斉興が外国船来襲に備えここに砲台を築き、斉彬によって錦江湾沿岸各所に砲台が整備された。天保山砲台には11門の大砲が配備されていたという。

また島津氏29代 茂久(忠義)と久光は、鶴丸城が艦砲の射程内にあることから、本陣を千眼寺に移し指揮を取った。

千眼寺跡。




鹿児島港へ移動。
かつて築かれた石積防波堤は海側が埋め立てられ、現在いおワールドかごしま水族館が建つ北埠頭の護岸としての役目へと変わっている。

北側の新波止は、島津斉興から斉彬の時代にかけて台場に改築された。
円弧状に積んだ巻石には、船の繋留させるために使用した係留杭がある。



薩英戦争時には17門の大砲が備えられた。単縦陣を先導する旗艦ユーリアラス号に、新波止砲台から発射された砲弾が命中し、艦長ジョスリングや副長ウィルモットらが戦死した。

また南側の一丁台場は1872年に築造、その両防波堤を継なぐ遮断防波堤が、1904年の修築事業工事で新設された。

遮断防波堤。