2022.12.26
天保山中学校内に、島津斉彬御陣屋跡の碑がある。
幕末、幕政改革のため3000人規模の率兵上洛を計画していた島津氏28代 斉彬。1858年7月8日に城下の諸隊を集め、天保山調練場で合同軍事演習を行なった。体調が悪かった斉彬だが、炎天下のなか終日の訓練強行がたたり、その夜に発熱し同月16日に非業の死を遂げる。
兄 斉彬の遺志を引き継いだ久光は、1862年に兵を率いて上洛を果たした。勅使とともに江戸に入った久光は幕政改革に乗り出す。
そして任を終え江戸から京への帰途、久光一行は武蔵国生麦村でイギリス人を殺傷する事件を起こした。この生麦事件に対して、イギリスは犯人の処罰と賠償金を要求。しかし交渉は難航し、翌1863年に7隻のイギリス艦隊が錦江湾に入り威圧した。そして3隻の薩船が拿捕されたのを機に、天保山から砲撃が行われ薩英戦争へと至った。
天保山公園の天保山砲台跡。
島津氏27代 斉興が外国船来襲に備えここに砲台を築き、斉彬によって錦江湾沿岸各所に砲台が整備された。天保山砲台には11門の大砲が配備されていたという。
また島津氏29代 茂久(忠義)と久光は、鶴丸城が艦砲の射程内にあることから、本陣を千眼寺に移し指揮を取った。
千眼寺跡。
鹿児島港へ移動。
No comments:
Post a Comment