3/24/2024

天御中主神社・国分清水城・楞厳寺跡


2023.12.30 (2)

天御中主神社(北辰大明神)に立ち寄って国分清水城へ。




島津忠久が島津荘下司職に補任されると、本田親恒が代官として下向した。その子 貞親は大隅国守護代を務め、国分清水城を居城に代々島津氏に仕えることになる。
時は下り、本田氏14代 薫親は近衛稙家に通じ、従五位下の官位を得て大隅国守護職をも脅かす存在になっていた。そして1548年、大隅正八幡宮の焼き討ち、家臣の斬殺などにより本田一族で内紛が起こる。これに介入した島津忠良によって国分清水城が攻め落とされると、薫親と子の親兼は北郷氏を頼り庄内へ出奔した。
さらに対抗勢力の鎮圧にあたるため、島津氏15代となった貴久は約1年間在城し対処している。またフランシスコ・ザビエルと会見を行なった場所ともいわれ、キリスト教布教を許可した。同じような記録が一宇治城にもあるが、時期や大隅国の情勢を踏まえると、信憑性が低いわけでもない。その後、国分清水城には貴久の弟 忠将が城主として入り、以久そして彰久へと引き継がれた。

搦手口から大手口に向かって進む。



すぐに右へカーブする切通しが設けられている。



左脇には堀切。



林道の右側は連郭かと思われ虎口らしきものもあるが、急斜面で登れる様子もない。



城門跡か、説明板の先が大手口に繋がる主郭部。



本丸跡虎口。




1561年の廻城の戦いで戦死した島津忠将は、麓にあった楞厳寺に葬られた。



同夫人、朝鮮出兵で病没した垂水島津家3代 彰久の墓も並んでいたようだが、太平洋戦争の空襲で破壊されたという。後に垂水島津家墓所の16代 貴暢の墓と合葬された。現在は墓跡の標柱が建っている。

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