3/31/2024

加治木城跡・黒川岬展望公園


2023.12.30 (3)

網掛川と日木山川に挟まれる丘陵に築かれた加治木城は、平安時代に大蔵氏が築城したといわれている。



搦手坂から道なりに進み御馬城跡の標柱が目に付く。




途中の縄張り図によると、御馬城の西側に二ノ丸、本丸、西ノ丸と横並びの連郭式中世山城だったことがわかる。現在は網掛川にむけて水田が広がり、二ノ丸跡と御馬城跡の間の農道が丘陵に沿うかたちで延び、城郭の裏側に回り込むと西ノ丸跡と本丸跡裏にそれぞれ通じる道があった。

開けた平坦地に出る。奥の白い小屋は二ノ丸跡と御馬城跡間の農道。



さらに一段あがった曲輪から連郭の空堀に出られる。ちょうど本丸跡(右側)辺りに出た。



本丸跡と二ノ丸跡の堀切から二ノ丸跡へあがる。




肝付氏12代 兼忠3男 兼光は本家を離れ肝付氏庶流となり、大隅国大崎城を拠点とした。その子の兼固は島津氏11代 忠昌に仕え、溝辺を与えられ移った。
1526年、相州家 島津貴久が島津氏14代 忠兼の養嗣子となり守護職が約束されると、帖佐平山城の辺川忠直は薩州家 島津実久に臣従した。そのため忠兼は島津忠良に命じてこれを平定させる。そして功績のあった肝付兼演は帖佐辺川、加治木の一部を与えられ、帖佐地頭に島津昌久が就いた。
しかし昌久がすぐさま謀叛を起こし、これに加治木城主 伊地知重貞が同調する。両者とも討ち取られ忠良によって鎮圧されたが、この間に実久が出水から軍勢を率いて南下、一宇治城などを落とし貴久が在城する清水城に迫ろうとしていた。そして実久の引導のもと、忠兼が勝久へ改名し悔い返しにより、奥州家と相州家、薩州家による相続争いは複雑化することになる。

兼演は1534年から加治木城に移り、後に加治木肝付氏初代として位置付けされる。奥州家の衰退につれ貴久に敵対するようになり、1549年に伊集院忠朗を大将に据え樺山善久、北郷忠相らが兼演を攻めた。黒川崎に陣を構えると、肝付方は日木山川を挟んで対峙し、現在の黒川岬展望公園辺りで行われた合戦は数か月に及んだ。



鉄砲の使用が記録(貴久公御請)された初見だという黒川岬合戦は、兼演が降伏し所領は安堵され加治木肝付氏2代 兼盛も貴久に従った。

黒川岬展望公園に黒川岬碑があり、島津家久が詠んだ和歌「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」が彫られている。錦江湾の名の由来だという。



1554年、蒲生範清は祁答院氏ら渋谷一族と、兼盛が守る加治木城を攻めた。貴久は救援策として岩剣城を攻めて牽制する策を取った。範清らは加治木城の囲いを解いて岩剣城の援護へと動く。そして大隅合戦へと展開していくことになる。

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