7/29/2024

舞鶴城屋形跡 (2)・金剛寺跡 (2)・大隅国分寺跡


2024.6.9 (2)



島津義久は隼人城を後詰めの城として、その南麓に舞鶴城ともよばれる国分新城を築城。そして1604年に富隈城から移り住み、没するまで在城した。

霧島市立国分郷土館に掲示されていた御屋形(国分新城)略図から推測すると、国分小学校から国分高等学校の敷地半分にあたるだろうか。残りの半分は衆中屋敷や犬馬場と記され、麓側には伊勢宮が鎮座する。そこに通じる道を境に石積みも異なっていて、国分小学校側は野面積み、一方の国分高等学校側は石垣上に白塗りの壁が設けられている。

国分小学校前の石垣と堀跡。



国分高等学校前。



重久の細山田氏が島津氏から拝領したといわれ、元は城内にあったものだと考えられている朱門。1963年に国分市に寄贈され、大隅国分寺跡に移築保存されていたが台風被害に遭い、ここに修復を経て復元された。




金剛寺跡。
ここから国分新城跡、さらに大隅国分寺跡へとまっすぐ道が通っているのは、1604年に城下町の整備が行われた名残り。時期も同じく金剛寺が創建され、現在は義久の遺骨の一部(抜歯といわれる)が祀られる5m超えの三重石塔が建っている。



塔身に刻まれた義久の法名「妙谷寺殿貫明在中庵主」。



 5年前に訪れた時は気にも止めなかったが、玉垣内の宝篋印塔が気になった。




奈良時代、災害や疫病の流行に見舞われた世情に、国家鎮護と五穀豊穣を願い聖武天皇が国ごとに寺院の建立を命じる詔勅を出した。国ごとに僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)を建立することになったが、大隅国分寺の建立年代は不明だという。
また国分新城の城下町整備、廃仏毀釈によってそのほとんどが破壊された。



現在、だだっ広い敷地に集められた石造物の一画がある。



多重層塔は康治元年(1142年)に国分寺の再興を祈願して建てられた。上の2段は石質が違うことから、後世のものだという。
その他、金剛力士像や戦国時代の国分寺六観音再興碑など。

7/22/2024

蒲生麓・隼人城跡


2024.6.9 (1)

この日は国分に泊まって、翌朝には東京に帰る予定。その道すがら蒲生に立ち寄った。
1826年再建の御仮屋門。



御仮屋の周辺には麓が形成され、現在でも当時を偲ぶ町並みが残っている。
西馬場。



蒲生氏12代 清寛が蒲生郷の菩提寺として開基した永興寺。



敷地はこの駐車場から蒲生小学校まで及び、蒲生で最も大きい規模を誇っていた。蒲生観光交流センターに、寺の遺品だという1849年鋳造の釣鐘が展示されている。



蒲生和紙を使用した蒲生城の御城印を購入。




国分に移動。城山公園として整備された隼人城跡へ。かつての曲輪と思われる所に建てられた霧島市立国分郷土館。駐車場にある橘木城跡供養塔。



南北朝時代、橘木城をめぐる戦さで命を落とした兵士を供養するための石碑だと考えられている。元々橘木城跡にあったもの。

左隣には国分重久から移された税所篤貞と篤員の墓がある。税所氏は大隅国曽於郡を領していた豪族。



頂上の城山公園から上井城跡方面を望む。



由緒不明の祠。



児童の森(フィールドアスレチック)に通じる搦手口は立入禁止で行けなかったが、遺構が見られるという。
また1周約1,400mもあるゴーカートが山の斜面にコースが設けられている。何か遺構がないかと思ったけど特にこれと思えるものはなかった。

ちょうどホテルから見えた隼人城跡。遠景。


7/14/2024

造士館跡・演武館跡・医学院跡・鬢石

2024.6.7 (2)

1773年、島津氏25代 重豪は人材育成を目的とした藩校 造士館(聖堂)、演武館(武芸稽古場)を創設した。場所は鶴丸城下、現在の中央公園にあたり、以前掲載した標柱の裏側に石碑が建てられている。


中央公園。



造士館では城下士や外城士が主に儒学を学び、演武館では示現流剣術の東郷氏や御家伝犬追物の川上氏などが武芸の指導にあたった。
1871年に廃校となっていたが、最後の薩摩藩主で公爵 島津忠義の多額な寄付により県立中学造士館として再興を果たす。その後、収容や合併を経て現在の県立甲南高校へと至る。

上山城跡中腹には日露戦争で没した造士館出身者を慰霊するため、忠芬義芳の碑が建てられた。



さらに重豪は1774年、中央公園から照国通りを挟んだ所に医学院を設立。医学書の講義や討論が行われた。



中央公園にも石碑がある。



こういった施設の運営は藩が負担していて、災害なども重なると財政を圧迫し莫大な負債を抱えることになるが、薩摩藩発展の礎を築いた功績は大きい。

また重豪の娘 茂姫が婚約していた家斉が将軍に就くと、義父となり高輪下馬将軍とよばれ、政界に多大な影響力を持つようになった。そして他藩に子を養子に送り出し、中津藩5代 奥平昌高や福岡藩11代 黒田長溥、八戸藩9代 南部信順と、それぞれが藩主の座に就いている。


2024.6.8

下福元町の鹿児島ゴルフリゾートの先に、鬢石と呼ばれる高さ2mほどの巨石がある。




1527年、当主の返上を求める薩州家 島津実久が兵を進め清水城に迫ると、貴久は僅かな供廻りと脱し田布施城へと逃れた。その道中、この凹みに溜まった水で鬢のほつれを直したといわれている。


7/01/2024

加治木城跡 (2)・勝岡城跡 (2)・八房神社


2024.6.7 (1)

鹿児島空港からレンタカーを借りて加治木城跡へ直行。前回あまり把握できなかったため再訪。

黒川崎の戦いで島津貴久に降伏した肝付兼演が没すると、嫡男の兼盛が肝付加治木氏の家督を継いだ。1554年、貴久に敵対する蒲生範清が祁答院良重らと加治木城を攻める。貴久は弟の忠将をはじめ、伊集院忠朗や樺山善久らに加治木城の救援に向かわすが戦局は良くならない。そこで良重の岩剣城を包囲する策を取ると、逆に蒲生・祁答院方が救援に動き戦局は一変し、岩剣城の戦いへと転化した。この大隅合戦といわれる一連の戦さは、蒲生城が陥落する1557年まで続くことになる。

加治木城本丸跡へはAs舗装され車でも行けそうだが、道も細く私有地ぽいので控えた。

本丸、二ノ丸間の堀切。



シラスが剥き出した断崖の二ノ丸塁壁。



以前西ノ丸は養豚場だったようで、遺構の現存の望みは薄いように思える。案内板まで戻り、高城や松尾城の捜索を試みたがよくわからなかった。


鹿児島市内へ向かう途中、帖佐駅前の姶良市観光案内所で、岩剣城と蒲生城の赤色立体図クリアファイルを購入。縄張りを知る資料として貴重。




前回の探索が不十分でなんとなく勝岡城跡を再訪。ひまわり園横の登城口。



急斜面の城道を上がる。



前回ショートカットした斜面をスルーして城道通りに迂回すると曲輪があった。位置的に本丸、二ノ丸に並ぶ配置で、本丸にかけて段々状に高くなっていく。
二ノ丸から本丸を右手に空堀を進む。



腰曲輪規模の削平地に行き着く。



さらに先には搦手口らしきものがあった。しかし登城口としては無理があり、竪堀の遺構かと思う。

登城口に戻り、ひまわり園前から車で舗装道路を進み犬迫小学校までぐるっと廻ってみたが、途中の民間墓以外はそれっぽいのは確認できない。しかし地形的にもこの一帯が勝岡城の全貌とも思える。

勝岡城前の犬迫川は天然の外堀の役目をなしていた。




勝岡城跡麓に鎮座する八房神社は、1530年に八幡太郎義家を祭神に比志島義祐によって建立された。比志島氏は重賢(栄尊)から始まり、数代さかのぼれば源義家の名に辿り着く。

明治になって、近くにあったという霧島神社を合祀。入母屋造りの社殿。



書き置きの御朱印を頂いた。



鹿児島県地誌・同備考(抄)によれば、大永の頃(1521〜1528)、川田氏10代 義元と11代 義秀が島津勝久から犬迫村を拝領したことが書かれている。永禄3年には入来院重朝が島津貴久から与えられ所領とした。ちなみに義秀は、島津氏16代 義久に仕えた軍師 川田義朗の義父にあたる。