2024.6.9 (2)
島津義久は隼人城を後詰めの城として、その南麓に舞鶴城ともよばれる国分新城を築城。そして1604年に富隈城から移り住み、没するまで在城した。
霧島市立国分郷土館に掲示されていた御屋形(国分新城)略図から推測すると、国分小学校から国分高等学校の敷地半分にあたるだろうか。残りの半分は衆中屋敷や犬馬場と記され、麓側には伊勢宮が鎮座する。そこに通じる道を境に石積みも異なっていて、国分小学校側は野面積み、一方の国分高等学校側は石垣上に白塗りの壁が設けられている。
国分小学校前の石垣と堀跡。
国分高等学校前。
重久の細山田氏が島津氏から拝領したといわれ、元は城内にあったものだと考えられている朱門。1963年に国分市に寄贈され、大隅国分寺跡に移築保存されていたが台風被害に遭い、ここに修復を経て復元された。
金剛寺跡。
ここから国分新城跡、さらに大隅国分寺跡へとまっすぐ道が通っているのは、1604年に城下町の整備が行われた名残り。時期も同じく金剛寺が創建され、現在は義久の遺骨の一部(抜歯といわれる)が祀られる5m超えの三重石塔が建っている。
塔身に刻まれた義久の法名「妙谷寺殿貫明在中庵主」。
5年前に訪れた時は気にも止めなかったが、玉垣内の宝篋印塔が気になった。
奈良時代、災害や疫病の流行に見舞われた世情に、国家鎮護と五穀豊穣を願い聖武天皇が国ごとに寺院の建立を命じる詔勅を出した。国ごとに僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)を建立することになったが、大隅国分寺の建立年代は不明だという。
また国分新城の城下町整備、廃仏毀釈によってそのほとんどが破壊された。
現在、だだっ広い敷地に集められた石造物の一画がある。
多重層塔は康治元年(1142年)に国分寺の再興を祈願して建てられた。上の2段は石質が違うことから、後世のものだという。
その他、金剛力士像や戦国時代の国分寺六観音再興碑など。
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