3/16/2019

北条早雲公像・小田原城址公園・北条氏政墓所


2019.2.19

石垣山城址から海蔵寺に立ち寄り、早川駅を利用して隣の小田原駅にまた戻る。西口のロータリーにある北条早雲公像へ。

小田原北条氏の祖である北条早雲の出生については、牢人との説もあったが鎌倉幕府以来の名門 伊勢一族の出で、名は伊勢新九郎盛時というのが現在の定説。室町幕府の幕臣を務めていたこともわかっている。



この銅像は、1495年に北条早雲が小田原侵攻の際、1000頭の牛の角に松明を括り付け、大軍を装い奇襲をかけた火牛の計を再現している。
しかし近年では、小田原が津波によって壊滅的な被害を受けた混乱に乗じ、小田原城を奪取したとの見解で、軍記物に見られる火牛の計は津波を比喩したものだと考えられている。

伊勢盛時から家督を引き継いだ伊勢氏綱は北条に改姓し、これまでの本城を韮山城から小田原城へと移した。
この2代当主 北条氏綱に仕えた島津忠貞という人物がいるが、以前、清徳寺のお墓に訪れた時にちょっと書いた。島津忠貞の子 忠正は後藤少林の養子に入り後藤島津家を興し、その子孫も小田原北条氏の家臣として仕えたという。
後世の後藤久利は、鹿児島藩主 島津光久に島津への復姓を求めそれが認められたが、正式な分家としては承認されなかった。


まだ日没まで時間があるので当然の流れで小田原城に向かう。現在の小田原城は、江戸時代の近世城郭の姿に整備されたもので、1590年の豊臣秀吉が小田原へ侵攻した時は、八幡山丘陵の尾根上に主郭があったという説が有力。
城下町ごと取り込み外周9kmにも及ぶ総構に小田原城の力攻めを諦め、長期戦を覚悟し石垣山城を築いたといわれる。

北条方は諸城に立て籠もり防戦していたが支城が次々と落城。小田原城包囲から約2ヶ月後には、友好関係にあった伊達政宗が豊臣秀吉の軍門に下った。そして3ヶ月に及ぶ籠城も、ついに北条氏直は降伏を申し入れ小田原城を開城した。


馬出門から一般的なルートで天守閣に向かう。



隅櫓の先に見える馬出門。



住吉橋。



二ノ丸へ通じる銅門。



常盤木門。



本丸は150m×114m程の規模で、その西端に天守台、中央に本丸御殿があった。
現在は広場になっていて奥に天守閣がそびえる。




小田原駅に戻り東口から2~3分歩くと、路地裏に北条氏政・北条氏照の墓所がある。



降伏した北条氏直は高野山に追放され、北条氏政と弟の北条氏照は城下の田村安斎邸で自刃した。
正面の2塔並ぶ右が北条氏政、左が北条氏照の墓。右の大きな五輪塔は北条氏政夫人のもの。

 

3/11/2019

石垣山一夜城歴史公園


2019.2.19

山中城跡公園からのバスが1時間に1本だったので、2時間ぐらい滞在して三島駅に戻る。新幹線で東京方面に上り小田原駅で下車。東口5番乗り場からバスで入生田まで約20分。太閤橋から石垣山一夜城方面を望む。



太閤橋を渡り、ひたすら坂道を歩くと、途中に早川石丁場群の遺跡がある。石垣用の石を切り出した石丁場だが、これは江戸城普請時のものらしい。



入生田から歩くこと約40分、ようやく史跡石垣山一夜城歴史公園に着いた。



石垣山城は、小田原城から南西におよそ4kmに位置する総石垣の城で、豊臣秀吉が本営とするために80日間で築城させた陣城。完成すると周辺の樹木を切り払い、小田原北条方は一夜のうちに出現した城に驚き戦意喪失したとか。

しかし、まず目に入るのは見るも無残な南曲輪の石垣。荒割りした石を用いた野面積みだけに、その様は時代に取り残され忘れ去られた廃城という印象を受けた。素人目にはわからないが、城割りといって城の役割を終えた際、一部を壊す作法らしく、その痕跡も確認されているらしい。



旧城道東登口から本丸を目指す。



南曲輪と東曲輪の道を行くと、かつては外門があり西曲輪と本丸への分岐にさしかかる。



天守台跡からは、本丸跡その先の小田原の町まで視界が抜ける。



本丸跡に掲示されている小田原城包囲布陣図。島津久保は石垣山城の北側に陣取っていたことがわかる。



物見台から小田原城を一望することができるが、現在の天守閣は江戸時代のものを模したもので、当時はさらに北西に位置した山城だったという。



二の丸から北東に位置する井戸曲輪は、当時の石垣と石塁が状態良く残る貴重な遺構。石塁によって谷を遮断し、湧水を貯水する構造だという。



帰りは早川駅方向へ下りることにした。途中、海蔵寺にある堀秀政の墓に立ち寄る。



織田信長が亡き後、豊臣秀吉を主君とし九州平定にも従軍した武将。山中城落城後の小田原城包囲ではこの海蔵寺を本陣としていたが、病没しここに埋葬された。
4基並ぶ宝篋印塔のうち、一番左が堀秀政のもので、他は殉死した家臣のものだといわれている。

 

2/26/2019

山中城跡


2019.2.19

品川駅から東海道・山陽新幹線で三島駅まで45分。さらに南口を出て5番乗り場から山中城跡公園までバスで35分。



山中城は小田原の西方の防衛拠点として、後北条氏第3代当主 北条氏康により東海道を遮る形で1560年代に築城された。1590年の小田原合戦の緒戦となったことでも知られている。

 


東海道の一部である箱根旧街道は、江戸時代に石畳が敷かれ整備された。



箱根旧街道から岱崎出丸に入り一番奥のすり鉢曲輪へ向かう。
中央に向けて傾斜がついていることから由来し、防備のための武者だまりと推定されるというが、当時はさらに深かったらしく待機しづらい矛盾が残る。



岱崎出丸西側の一ノ堀と呼ばれている畝堀。障子堀も同様、現在は芝生や樹木で保護されているが、往時は滑りやすいローム層の赤土が露出した状態だったという。



1587年の九州侵攻で島津義久が降伏し、豊臣政権の天下統一まで残すは関東の北条氏政(当主は北条氏直)、奥州の伊達政宗となった。北条氏は臣従を決めたものも北条氏政は上洛を先延ばしにし続けていた。
1589年、北条方の沼田城代 猪俣邦憲が真田昌幸の名胡桃城を襲撃したことにより惣無事令が破られ、豊臣秀吉は小田原征伐に踏み切ることになる。

参陣が命じられた島津久保は騎歩共わずか450人、15騎の中に北郷三久、樺山久高、伊勢貞昌らを従え豊臣軍主力部隊と東海道を進んだ。
途中、連日の雨で水嵩が増した駿河富士川を渡れず躊躇する諸将を横目に、島津久保が瀬踏みを申し入れ見事に渡りきったという話しがよく知られている。

そして豊臣秀次率いる7万近い軍勢が、小田原城の支城の一つ山中城を攻撃した。籠城する北条方は4千。島津軍はすり鉢曲輪の東側(一ノ堀の逆側)から攻め入ったという。



国道1号線を渡り、三ノ丸堀から田尻の池を通って三ノ丸の宗閑寺へ。境内には北条方・豊臣方両武将の墓がある。

右が山中城城主 松田康長で、五輪塔は岱崎出丸で討死した間宮康俊らの3基が並ぶ。



その右手の囲垣は豊臣方の武将 一柳直末の墓。



三ノ丸から田尻の池に戻る。虎口を入り両側を土塁で挟まれた坂道が元西櫓、二ノ丸に通じる通路になっている。



二ノ丸を抜けると本丸へと通じる。本丸跡。



西ノ丸から西櫓にかけての障子堀。




静岡県三島市による山中城址の空撮映像。遺構の保存から公園としての管理まで、三島市の取り組みには頭が下がる。

 

12/15/2018

江戸城


2018.12.3

各大名に普請が命じられ築城された江戸城。皇居周辺の石垣には現在も各藩の刻印石が残っている。
刻印は石垣を築いた場所に刻んだり、持ち込んだ石が他の藩と区別できるようにだったり、採石場を示すなど様々な理由が考えられる。そういう視点で石垣をみるのもおもしろいかもしれない。


東京駅から行幸通り方面に上がり和田倉橋へ。



和田倉噴水公園を抜け右に曲がると、Palace Hotel Tokyo前の濠を挟んだ石垣に、複数の丸に十字(薩摩藩島津家または佐土原藩島津家の家紋)の刻印石が確認できる。



石垣上に生える2本の木の間の笠石。同じ石にもう1つ刻印があるので疑わしいか。



写真中央とその右斜め上、そして斜め下にも丸に十字。



その写真中央の丸から線がはみ出している家紋に違和感を覚える。調べてみると、丸に出十字といって丹後竹田 中川内膳正久盛、また伊予大洲 加藤出羽守恭興が使っていた刻印らしい。
複雑な家紋だと石に刻むのは難しく、簡素化や新たに家紋として用いるのことは当然だろう。
さらに前田家家臣は、丸に十字を組み合わせた複合タイプで、丸に十字を一概に島津家と決めつけることはできない。ある程度見極める知識も必要になってくる。


和田倉門や桔梗門にも薩摩藩島津家の刻印石があるらしいが、この日は皇居乾通り一般公開で人でごった返していたので断念。比較的人の少ない北の丸公園の田安門、清水門の刻印石を探ることにした。

奥に見えるのが桔梗門。



内堀通りに沿って北の丸公園を目指す。武道館を抜け田安門へ。気付けばもう九段下、東西線で2駅分歩いたことになる。



北の丸公園入口の田安門を入った枡形の左手に薩摩藩島津家と思われる丸に十字。



これにもなんか違和感。明らかに他のよりも大きく四角に近い。高さ的に立って彫りやすい位置にあり、後々誰かが刻んだのか?と勘ぐってしまう。


田安門から千代田区役所方向の清水門へ移動。
江戸幕府第14代将軍 徳川家茂の正室となった和宮は、輿入れの際この清水門から北の丸の清水邸に入ったという。



高麗門から渡櫓門を抜け、真正面の枡形の石垣に刻印石を発見。



ここから神田川沿いに竹橋駅方面に歩く。神田川に架かる雉子橋から錦橋にかけて外堀の石垣が残っている。



このどこかに丸十字があるらしいが、この辺りは上部を首都高が遮っていて、日中でも薄暗く探すことができなかった。
神田川クルーズに参加すると見れるっぽいけど、刻印石の位置が水面ギリギリなので水位にも影響されそう。

12/04/2018

清徳寺・奥平家墓域・広岳院・東禅寺


2018.8.11

品川駅から京急線を乗り継ぎ新馬場へ。北口を出て第一京浜を渡ったところに清徳寺はある。



そこからさらに右手の細い路地を行き、門を入りまっすぐ進む。桶・柄杓置場の手前にあるのが長徳軒忠貞のお墓。没年が一致するので間違いない。戒名 長徳軒龍堂泉公居士。



長徳軒忠貞は相州家 島津運久の子で、本来であれば相州家を継ぐ身。しかし島津運久が伊作家 島津忠良(後の日新斎)の母 常盤(新納是久女、梅窓)と再婚し、島津忠良が相州家の後継者となった。
一方、家督を継ぐことができなかった島津忠貞は長徳軒と名を変え出家、下野国の足利学校に留学すべく海を渡る。
しかし遠江国で遭難にあい駿河沖に漂着した。これを聞き付けた駿河・遠江守護 今川氏親(今川義元の父)が使者を出したのを機に、長徳軒忠貞は還俗し今川氏に仕えるようになったという。

さらに医術に精通していた長徳軒忠貞は、病気になった北条氏綱から小田原に呼ばれ、以降は北条氏に仕えた。



清徳寺から第一京浜に戻って山手通りを右折、東海禅寺を過ぎ目黒川を渡ると左手に清光院がある。清徳寺からだと徒歩15分くらい。



目的の奥平家墓域は清光院の奥。目黒川側に瓦積みの土塀に囲まれた一画がそれ。



ここには島津氏第25代当主 島津重豪の次男 奥平昌高の墓がある。
奥平昌高は豊前中津藩主 奥平昌男の養子に入り、わずか6歳で家督を継いだ。父親譲りの蘭癖だったらしく、オランダ名をフレデリック・ヘンドリックという。娘は島津忠寛の正室へ入っている。

配列図がないので、奥平昌高の戒名 龍徳院殿無方道應大居士を手掛かりに墓石を探す。
該当したのが、石門から見て1番右奥の空風火水地と刻印された五輪塔。



2代藩主 奥平家昌夫婦、姉 雲松院の五輪塔。3メートル超えが3基並ぶと圧巻。




京急新馬場駅に戻り品川駅で下車。さらに港区コミュニティバスに乗り高輪台小学校で下車する。歩いてすぐの東海大学前にある広岳院へ。



島津家に仕えた家老 伊勢貞昌が1641年に江戸で病死し、広岳院に葬られたという情報をもとにお墓を探す。

伊勢貞昌は島津久保に従い小田原征伐や文禄の役、島津久保が亡くなると島津忠恒に共し慶長の役、庄内の乱に出兵し武功をあげた。

ここも墓地は併設されておらず、正面に向かって左側の路地を行くとあるのだが、柵にはカギがかかり閉ざされている。



本殿に戻り話しを伺うと、関係者以外の参拝はできないらしい。しかも古くて墓石の字は読めないとおっしゃっていた。仕方ないので、次の目的地の東禅寺へ向かう。



ここから徒歩10分ぐらいの東禅寺は、日向飫肥藩主 伊東祐慶が開基し、寺号は法名から取られた。以降、飫肥藩主伊東家をはじめ、仙台藩伊達家、岡山藩主池田家など多くの大名の菩提寺となる。



墓所は山門に向かって左の路地を行けば辿り着けるが、ここも関係者以外は非公開。北郷忠亮の墓が都城島津家墓地のほか、ここにもある情報があったので確かめたかったが残念。



東禅寺前の高輪公園にある看板。江戸時代の敷地図が掲げられ、当時のこの辺りの様子がわかる。

 
 

この約300年前の公園附近沿革案内には井伊、本多家の屋敷が高輪公園を挟んであるのがわかる。その横には松平大隅守の下屋敷、抱屋敷。
これは高輪森の公園に掲示されている、1846年の御府内場末住還其外沿革図書と比べてみてもほとんど変わりがない。200年以上も屋敷を構えていたことになる。