12/16/2019
曽木の滝・関白陣跡・新納忠元公廟所・忠元神社
2019.6.28
入来から伊佐市へ移動、川内川上流の曽木の滝へ向かう。朝の大雨で水が濁り、増した水嵩は圧巻だった。
1587年、九州征伐を成した豊臣秀吉は、島津義弘に「祁答院に出て、曽木の滝を見物し、大口より肥後に帰らん」と帰路を示している。
その大口地頭 新納忠元は、島津義久が降伏した後も抗戦態勢を崩していなかったが、主君の命に仕方なく従った。
そして関白陣で忠元は秀吉と会見し、一緒に清水神社境内から曽木の滝を見物したことが伝わっている。
観音渕から滝つぼの渓流を見ることを勧め、隙があれば秀吉を突き落とそうと考えていた。ところが秀吉もさるもの、心を見通して見物する間、忠元の袖をしっかりつかまえ体をすり寄せ一時も放さなかった。秀吉の人の心を見抜く力に敬服したという。
天堂ケ尾の山頂にある関白陣跡。
山腹には、豊臣秀吉が築いたと思われる遺構がある。すでに泰平寺で和議が成立した後のことで疑問も残るが、薩摩の領主に天下人としての権威を誇示するため、防塁を築いたのではないかと考えられているとか。
新納武蔵守忠元碑の碑文には、「関白豊臣秀吉 武威ヲ揮ヒテ薩摩ノ地二大軍ヲ下シ 帰ルニ臨ミ 我曽木郷 天堂ケ尾二陣シ 北薩ノ重鎮 新納武蔵守忠元ヲ引見ス」と刻まれている。
この碑銘にまつわる逸話が興味深い。
日露戦争の軍人 大脇三四郎は、東郷平八郎元師邸を訪ね、関白陣の碑銘をお願いした。しかし元師は「島津公に手を着かせた豊臣秀吉を好まない」と断ったとか。
ねばり強くお願いしたところ、戦友の誼みでもって新納武蔵守忠元碑の碑銘を与えたという。
関白陣跡から新納忠元公廟所へ、車で20分ぐらい移動。
1610年、新納忠元は40年近く地頭を務めた大口で亡くなった。原田天龍寺で荼毘(火葬)に付されこの地に眠る。
新納忠元と妻の宝篋印塔。両脇は殉死者 伊地知又十郎(右)、宮竹休兵衛(左)の墓石が霊屋に安置されている。
すぐ近くにある新納忠元を祀った忠元神社。
創建された1844年、調所笑左衛門広郷が奉納した手水鉢が現存。
12/05/2019
清色城・寿昌寺跡
2019.6.28
清色城麓には、武家屋敷群のほか入来麓観光案内所や入来郷土館などの施設があり、1日潰れてしまいそうなので清色城の登城は諦めた。
まず入来麓観光案内所で情報収集し、清色城の城郭符と入来町の文化財という冊子を購入。
続いて目の前の入来郷土館へ。2Fの職員に声をかけて見学させてもらう規模のものだが、展示品は唐草十文字の陣羽織や入来文書(原本は東京大学に移管)のほか、29代 入来院公寛に島津久光の娘 於珍が輿入れの際、持参した長持などがあった。
唐草十文字は、1702年に島津氏20代 島津綱貴から与えられ、以降入来院本宗家の家紋となっている。
入来院地頭渋谷氏一族、入来院氏が代々居城とした清色城。
入来小学校前(お仮屋跡)の清色城の碑。
後日(2021.8.10)、宮之城へ向かう途中、前回登れなかった清色城跡に立ち寄ったので追記。
入来小学校正門階段前から尾迫馬場の方へ回り本丸を目指す。
シラス台地を空堀で区切った特徴があり、本丸と松尾城間の堀切はほぼ垂直の壁を成している。
本丸跡。
物見之段跡には、見張り台のものと思われる礎石。
さらに進むと入来小学校のプール横に出てくる。
居城とした清色城について、三国名勝図会には「宝治2年(1248年)の春、始めて入部し此清色城を治所とし其家累世居城せり。因て入来院、若くは清色を家號とす。」とある。しかしそれ以前に入来院頼宗が居城との記述があり、築城の時期は定まっていない。
島津宗家の家督をめぐる内紛が起こった戦国期、入来院氏当主は11代 入来院重聡。
守護職を狙う薩州家 島津実久と対立関係にあった島津宗家 島津勝久は、伊作家の島津忠良、島津貴久を頼った。これまで抵抗と服従を繰り返してきた入来院氏ではあるが、島津実久に所領を侵攻されていた入来院重聡は、島津宗家に味方し娘(雪窓夫人)を島津貴久に嫁がせ友好関係を結んでいる。後に三州統一を果たす義久、義弘、歳久の生母として知られる人物である。
後を継いだ入来院重朝、そして重嗣は度々島津宗家に叛いたがついに降伏し、本領である入来院以外の地を召し上げられた。その後は島津氏の勢力拡大に助力している。
しかし、1583年に亡くなった入来院氏14代 入来院重豊には男子がいなかったため、島津以久の子 重時が養子に入り家督を継いだ。これによって完全に島津氏一門に取り込まれることとなった。
清色城跡から樋脇川の清色橋を渡ったすぐ右手、入来院家の菩提寺であった寿昌寺跡。
江戸時代初期のものといわれる仁王像が残るが、それには下半身がない。ある人が切り取って石臼にしたためで、その人は仏罰を受け歩けなくなったという。
鳥居を背に左奥に見えているのが、お石塔と呼ばれる入来院領主家代々の墓地。不自然に整列した祠墓塔群は、1666年にここに移された寄せ墓である。
入来院氏初代 定心と夫人の墓。
入来院氏15代 入来院重時と夫人の墓。
11/15/2019
串木野城跡・南方神社・串木野氏の墓・大中公の廟
2019.6.27
市来から北上、串木野市の串木野城跡へ。
串木野の場所柄、島津宗家にとって出水の木牟礼城への要路であり、南北朝以降も北薩の雄族、渋谷氏一族を牽制するうえでの重要な要所であった。
串木野城を主城として北側に五反田川が流れ、坂之下栫城と浜ケ城が出城として東西に配置されていた。その坂之下栫城で1568年、島津義久と渋谷衆との戦いがあり渋谷衆53人が討死した、と三国名勝図絵に記述がある。
1570年、島津家久が薩摩国隈之城と串木野の地頭となり、佐土原を所領するまでの約10年間に及び串木野城を居城とした。また島津豊久の生誕地としても知られている。
もともと串木野城主であった串木野氏は、薩摩郡本地頭 平忠直の子である串木野三郎平忠道に始まり、5代 忠秋まで約120年にわたってこの地を治めていた。
南北朝時代の1342年、南朝方の串木野忠秋は、北朝方の島津貞久との争いに敗れ、同じ薩摩平氏の知覧の地へと逃れた。
1355年には三条泰季が指揮する南朝方の市来氏家、鮫島蓮道、知覧忠世らが串木野城を攻めたが、島津貞久の子 師久に阻まれ奪還することはできなかった。
島津氏10代 立久のころ、川上忠塞が串木野城主に任じられる。それから3代目の川上忠克は次女を薩州家 島津実久の継室に入れ、実久の家老として島津宗家と対立関係になっている。
しかし1539年、島津貴久が市来鶴丸城を落とした時に降伏、忠克は流罪となったがその後許され、島津宗家を家老として支えた。
南九州に於いてのこういった反島津情勢は、鎌倉時代初期の1197年、東国から薩隅日の守護職として下った島津氏に対し、在地官人の豪族らとの軋轢が根付いていて、時代情勢を背景に南朝方へ恭順する構図が成り立っていた。
串木野城跡の東側に鎮座する南方神社は、かつての曲輪で旧入来邸のすぐ横に鎮座している。
1592年、島津義久が文禄の役で肥前名護屋城へ赴く途中、諏訪上下大明神社を参拝したという。
南方神社となったのは明治維新以降。
串木野氏の墓と伝わる墓塔が城跡近くにある。
串木野忠秋のものだとの記述もみられるが、実際は各部を寄せ合わせたもので信憑性は低い。
串木野氏の墓から南九州西回り自動車道方面に向かい大中公の廟へ。
大中公とは、戒名の南林寺殿大中良等庵主からとったもので、島津氏15代 島津貴久を指す。島津家久が父 貴久の御霊を迎え、良福寺に位牌を祀って朝夕拝んでいたという。
自動車道整備に伴い現在地に移された。
11/07/2019
丹後局舟着場跡之碑・鍋ヶ城・湯田稲荷神社・市来鶴丸城跡・来迎寺跡・法城山龍雲寺跡
2019.6.27
2泊3日の帰省。昼過ぎに鹿児島空港に着き、レンタカーを借りてその足で市来へ向かう。
市来駅前の丹後局舟着場跡之碑。
三国名勝図会の花尾大権現社には、忠久公が薩隅日の守護職に任ぜられ此国に下って来たとき、丹後局及び惟宗広言を迎え入れ、広言を市来院の地頭職とし、丹後局には厚地村、東俣村を湯沐の邑として与えられた、とある。
その下向時の舟着場を示す石碑だが、実際はもうちょっと重信川の方へ下ったところだといわれ、民家の庭先にそれを示す標柱が建っている。
大里川にそそぐ重信川の名は、大里村木崎が丹後局の従臣 重信某に与えらたことから、それに由来すると推測される。
惟宗広言と丹後局が居城としていた鍋ヶ城。宝亀年間(770年~780年)に大蔵政房によって築かれたとされる。市来院郡司として薩摩に下向して以来、市来氏と称して代々引き継がれた。しかし4代 家房には男子がなく、外孫の惟宗政家を養子にとり郡司職を譲った。惟宗姓市来氏となったことにより、同族でありながら恩顧を受けている島津氏に対し不満が芽生え、島津氏との間で系図相論が起こっている。
市来鶴丸城が築城されてからは、鍋ヶ城から政の場が移行されたと考えるのが妥当か。
その広大な平地中央に、惟宗広言のものと伝わる墓が建っている。しかし草木が覆い被さっていて、その全体像の確認は難しかった。
摂州住吉に於いて、丹後局はすでに日が暮れ大雨のなか、狐火の擁護によって島津忠久を無事に出産できたといい、その霊験を偲び、1221年に勧請したと伝わる湯田稲荷神社。
鹿児島で最古の稲荷神社とされるが、1683年の湯田新田開発に際し、当地に遷され現在に至っている。
市来氏の菩提寺であった来迎寺跡に、この地を統治していた市来氏歴代墓塔群が建っている。
三国名勝図会には、丹後局の御霊牌を安置したとあり、丹後局のものだと伝わる墓がある。
また惟宗広言、丹後局従臣の墓といわれるものもあると記されているが、今となっては判別がつかない。
伝 丹後局の墓。
市来院郡司の市来氏居城として、1244年に築かれた市来鶴丸城。
説明板によると、鶴丸城と呼ばれる曲輪群と御惣坊城と呼ばれる曲輪群で構成していたという。古城主由来記に市来家房が最初の城主と記されていて、また他の古文書には、1337年に市来時家と島津貞久の庶長子、川上頼久(川上氏初代当主)がこの城で合戦したと記載されている、とある。
平定された市来氏であったが1462年、再び12代 市来久家が叛いたため、島津立久(島津氏10代当主、家督継承は1470年)はこれを討ち市来氏は滅ぼされた。
鶴丸城跡まで、鶴丸小学校と春日神社の間にある鶴丸城址登道の碑から約350m。
掲示されている鳥瞰図は、最大規模に拡張されたと推定される天文~天正年間(1540年代~1570年代)の復元図だという。
まさに島津薩州家領から島津相州家領になった頃に始まって、島津宗家が盤石な基盤を築きあげた時期と重なる。それに伴い発展していった様が目に浮かぶ。
1539年、相州家の島津忠良と島津貴久は、薩州家の加世田別府城を陥し市来鶴丸城を攻めた。島津実久の弟 島津忠辰を討ち取り城将 新納忠苗を降した。そして市来鶴丸城には伊集院忠朗が入城した。
鶴丸城跡まで30m辺りのところまで来ると、左手に堀切が確認できる。
鶴丸城跡にはそれを示す碑と門柱らしき礎石が現存。
また宣教師ザビエルが滞在したことでも知られる市来鶴丸城。
新納康久が城主の頃、家老ミゲルはザビエルを招き、康久から城内での布教が許された。ザビエルはここに10日間滞在し、長崎県の平戸へ旅立っている。
麓の鶴丸小学校正門の石垣は、1893年に構築された近世のもの。
市来鶴丸城からすぐ近くの法城山龍雲寺跡。
島津立久は、菩提寺として龍雲寺を築いた。1474年、立久が亡くなると、遺言によりここに葬られた。後に福昌寺に改葬され、現在は墓祠のみとなっている。
島津立久公墓地跡。
7/31/2019
徳持庵跡・金剛寺跡・舞鶴城屋形跡・遠寿寺跡
2019.5.3
京セラ国分工場から県道472号線を南に下った徳持庵跡に、島津義久の墓所が歩道に沿うようにある。
徳持庵は廃仏毀釈で廃寺となり、金襴の袋に納められていた分骨を、後世の1875年に埋葬した。その墓石には大國豊知主命と刻まれている。
背後に見える上井城跡は、上井覚兼の父 上井薫兼が薩摩国永吉地頭として移封されるまでの居城で、覚兼はここで幼少期を過ごした。
車で北へ約3分の金剛寺跡。
金剛寺は島津義久の祈願所として建てられた。5m以上ある三重の石塔は、義久の抜歯が納められたといわれている。
国分小学校の敷地にかつてあった舞鶴城。
関ヶ原の戦い後、徳川方の侵攻を恐れた島津義久は、国分をそれに対抗する地と定め築城に取り掛かった。1604年に完成すると、富隈城から舞鶴城へと移り住み、城下に碁盤の目をしき寒村だった地を整備。屋形造りではあるが、裏山の隼人城を後詰めとする立地にあった。
朱門は城内のものを移築したといわれているが詳細は不明。
現存する石垣と堀の一部が残る一方で、近年整備された歩道がアンバランスな印象を受ける。
舞鶴城跡から徒歩2~3分の遠寿寺跡に、島津義久夫人 円信院妙蓮の供養塔が残る。
菩提寺であった本成寺に葬られていたが、3女 亀寿が再興し遠寿寺と改名、種子島氏の宗派にならい法華宗の寺だった。当時は義久と妙蓮の位牌が安置されていたという。
岩屋の中に4基の供養塔、その前には由緒不明の宝篋印塔が建っている。
以前本能寺を訪れた時、信長公廟の左側に鎮座されている円信院妙蓮の石塔を偶然見つけた。三段構えで手前から徳川九代将軍家重夫人の供養塔、菅中納言局庸子の石碑、島津義久夫人の石塔の順に縦一列に並べられた3石塔。
いろいろ調べたところ、それは本能寺と種子島氏の関係にある。種子島氏12代当主 忠時、13代 恵時は上京し参詣した記録があって、本能寺に帰依していたことが知れる。
また住持の多くが種子島氏の出身だったようで、同寺再興の際は資金援助を種子島氏に頼ったともいわれている。
妙蓮は種子島氏14代当主 種子島時堯の娘。
7/29/2019
加治木肝付氏墓・精矛神社・樺山氏墓石群・富隈城跡
2019.5.3
能仁寺跡から北へ5分ほどの東禅寺跡。左手一番奥にひっそり4基並ぶ加治木肝付氏墓。
相州家の島津貴久と薩州家の島津実久が宗家家督争いのなか、伊地知重貞が実久に加担したため、島津忠良は1527年に加治木城を攻め落とした。そして、戦功のあった肝付兼演が加治木の一部を治めることになった。
しかし1549年、兼演は蒲生氏・渋谷一族らと謀反を起こし、伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの島津軍が加治木城に攻め入った。初めて鉄砲が使われたというこの戦さに降伏した兼演だったが、貴久は再び1550年に加治木を与えた。
一番右の墓塔は、加治木肝付氏3代兼寛(利翁守益庵主)のものだと伝わる。他の石塔は2代 兼盛とその側室といわれるが、刻字がなく断定はできないという。
東禅寺跡のすぐ近くに精矛神社がある。
1869年、加治木島津屋形跡に造営された精矛神社。祭神 島津義弘の没300年にあたる1918年、加治木島津家の別邸 扇和園があった現在の地に遷座された。
文禄の役の際に朝鮮から持ち帰ってきた石臼。後ろには手洗鉢も。
これは朝鮮出兵の際、船の沈没を避けるため武器や食糧で船脚を沈め安定をはかり、帰りは手洗鉢や石臼を底荷として積み込まれたものだと伝わる。
なお、現在の宮司は加治木島津家13代 島津義秀さんが就かれている。
霧島に入って樺山氏墓石群を目指す。
下調べだと公民館裏手の山中にあるようだが、その入り口がなかなか見つからない。近隣の方々に尋ねたところ、ご好意で案内して頂いた。民家脇を入り、水路を渡ってすぐの分岐を左に行くルートをとる。右は私有地とのこと。
元々は4列ぐらい並んでて現在の形に整備されたらしんだけど、復旧の時にパズル状態でぐちゃぐちゃになったと仰っていた。
島津氏4代 忠宗の5男 資久を初代当主とする樺山氏。
9代 樺山善久の妻は島津忠良の娘 御隅、末娘は島津家久に嫁いでいたり、血縁的にも島津氏とのつながりが強かった支族である。
善久のものだといわれる墓は風化が進み、戒名の解読は難しい。
樺山善久(玄佐)は島津氏三州統一の功臣であり、著した玄佐自記は島津家の権力統一過程を如実に示す史料として貴重。
嫡男 忠副は蒲生氏との戦いで討ち死したため、家督を忠助(紹剣)が継承。忠助も紹剣自記を残している。
8分ほど車で移動し、富隈城跡へ。
1595年、豊臣政権に降伏した島津義久は龍伯と号し、隠居先として薩摩国との境に富隈城を築き内城から移り住んだ。城といっても防御機能の低い居館だったといわれている。
城跡は稲荷山公園として整備され、中腹には稲荷神社が鎮座。
義久が富隈に移住した年に、島津家の氏神 稲荷神を勧請して稲荷神社と称した。
その歴史は古く、1375年に大隅守護職 島津氏久が島津祖 島津忠久と夫人を合わせ祀った一ノ宮大明神が元になっている。
1604年、義久は国分に舞鶴城(国分城)を築いて移り住み、富隈城は廃城となった。
現在遺構として、肥後の石工が築いたと伝わる野面積みの石垣が西側と東側に残る。
Subscribe to:
Posts (Atom)