11/11/2024

高輪森の公園・畠山美術館・港区立郷土歴史館

2024.10.26

再開発が進む品川駅高輪口。
旧Shinagawa Goosと品川税務署間の駐輪場を進むと、高輪森の公園がある。この一帯は江戸時代、薩摩藩島津家の下屋敷・抱屋敷があったところ。

掲示されている当時のマップの中央に記載されている松平大隅守下屋敷・抱屋敷がそれにあたる。



斉宣に家督を譲った島津重豪は1796年にこの高輪藩邸へ移ると、隠館を築き邸園の大規模な改修を行なった。その景勝を詠んだ十篇の詩が刻まれる石碑「亀岡十勝詩碑」が畠山美術館に現存する。

現在、公園といっても遊具はなく、丘陵の斜面をロープを使って登ったり、地形を活かしたプレイパークが定期的に催されているらしい。



明治から昭和にかけては宮家の邸宅として使用されていて、滝跡とその流路だったと思われる庭園遺構は、その時代の遺構だと考えられている。




ここから徒歩15分、リニューアル工事を終えたばかりの畠山美術館へ。門を入り、道なりに右へカーブする左側に亀岡十勝詩碑があった。



さらに白金台方面に約15分歩く。瑞聖寺と八芳園(薩摩藩下屋敷跡)に立ち寄り、港区立郷土歴史館で開催中の特別展「激動する幕末維新の港区」を鑑賞。




特別展は桜田門外の変、薩摩藩邸焼き討ち事件、戊辰戦争など興味深い内容だった。


10/07/2024

青山霊園 (3) ・桜田門


2024.8.15

英国商人リチャードソンを殺傷した生麦事件で知られる海江田信義(有村俊斎)の墓。



向かって右側奥に、信義の弟である有村次左衛門兼清の墓がある。



尊王攘夷派に弾圧を加えた安政の大獄。それを指揮する大老 井伊直弼の暗殺を計画した水戸浪士に、薩摩浪士の次左衛門が加わっていた。

1860年3月3日に実行された桜田門外の変。この日は桃の節句祝いのため、江戸城へ登城する直弼を狙って外桜田門(高麗門)に差し掛かる行列を襲撃した。次左衛門は駕籠から直弼を引きずり出し首級をあげる。しかし彦根藩士 小河原秀之丞の追撃にあい、さらに深傷を負いながらも首級を抱え、遠藤但馬守邸まで来たところでついに力尽きた。



2024.9.27

桜田門外の変は、有楽町線桜田門 出口3を上がった辺りで起こった。右が外桜田門。



直弼の首を取った後の次左衛門の経路を辿る。
凱旋濠(内堀通り)から日比谷濠(晴海通り)に沿って日比谷御門(日比谷交差点)を左折、馬場先御門前を通過し、和田倉門の先の遠藤但馬守邸に至った。

普通に歩いても20分以上はかかる距離を首級を抱え、負傷した体で降雪による足元の悪いなか走り通した信念は、並々ならぬものを感じる。

かつての遠藤但馬守邸は現在、日比谷通りが貫通し日本生命 丸の内ガーデンタワーが建っている。



痕跡を探したところ、以前の1633年に建てられた福井藩上屋敷(龍ノ口)跡の看板があった。


10/06/2024

青山霊園 (2)


2024.8.15

お由羅騒動で島津斉彬を推していた葛城彦一は、斉彬派が切腹や遠島の処分を受けるなか、筑前藩へ亡命し難を逃れた。斉彬が当主に就くと、加治木島津家10代 久宝の姉 貞姫が近衛忠房への嫁入りに際し、付き人として近衛家に仕えた。
旧名は竹内半右衛門といい、加治木島津家の家臣。姶良市の真光院墓地には葛城彦一翁碑が建立されている。

青山霊園管理所近くにある葛城彦一の墓。




薩摩藩下層身分 与力の家に生まれ、大警視(初代警視総監)にまで出世した川路利良。
身分が故、一兵卒に過ぎなかった川路は禁門の変や鳥羽・伏見の戦い、上野戦争と戦功をあげていった。新政府が成立すると、西郷隆盛から東京の治安維持を任せられる。ところが、その恩人である西郷が征韓論争で大久保利通らと対立して陸軍大将を辞任し下野、薩摩藩士の多くも軍や羅卒を離脱し鹿児島に戻ていった。

一方、川路は東京にとどまることを決意、警察創設に邁進し警視庁創設にまで至った。新政府が打ち出した廃刀令や家禄の支給廃止に反感を抱いた士族の反乱では、警察官を後方支援で派遣し鎮圧に貢献した。
新政府が最も警戒していたのは西郷が創設した私学校というのは言うまでもなく、そこに密偵を派遣していることが露見すると、私学校の士族たちは武装して決起した。

鹿児島の私学校跡。



1877年、西南戦争が勃発。
川路は陸軍少佐に着任、現地に赴き新政府軍の熊本城を包囲する西郷軍を撤退させた。しかし熊本城救出に成功するも突然、陸軍少佐を辞任し東京に帰還。

この一連の西郷軍敗走戦の激戦となった横川に、北原氏の後裔とされる川路の銅像が建っている。横には民部塚があり、かつて北原氏の支城 横川城が島津軍に攻められ、北原民部之助が切腹した所だという。

青山霊園の川路利良墓石下には遺言の通り、桜島の溶岩が敷かれた。大久保利通の墓と東三通りを挟んだところ。




維新の元勲、伊地知正治。
薩英戦争、禁門の変で軍役奉行、戊辰戦争では東山道先鋒総督参謀に任命され薩摩藩兵を指揮、西郷も信頼を寄せていた人物。

伊地知正治の墓。


8/04/2024

青山霊園 (1) ・清水谷公園・高輪別邸跡・畠山記念館


2024.7.7

山手線の原宿から千代田線に乗り換えて乃木坂で下車。5番出口を出て青山霊園に向かう。1日ではとてもまわりきれないので大久保利通の墓に絞る。
と言いつつも、配布されている案内図をもらいに管理事務所へ向かう途中、福岡藩黒田家墓所を見つけ立ち寄り。

薩摩藩8代 島津重豪の13男。福岡藩10代 黒田斉清の娘と婚姻、婿嗣子に入り11代藩主となった。
従二位勲三等黒田長溥之墓。




同郷の薩摩藩士 西郷隆盛、長州藩士 木戸孝允と明治維新の三傑といわれる大久保利通。明治政府を成立させ、版籍奉還や廃藩置県などを主導、内務卿に就いた利通は旧士族の反発の標的となった。

顕彰碑。



鳥居の奥にある亀趺墓。




利通の墓の傍らには、中村太郎と馬車をひいていた馬の墓がある。太郎は利通に召し抱えられ、事件当時に馬車の手綱を握っていたため、同じく襲撃を受け落命した。




次は利通が暗殺された場所に建てられた哀悼碑に行く。外苑前駅から銀座線に乗り赤坂見附で下車。D出口から弁慶橋を渡り清水谷公園に到着。

大久保利通終焉の地。利通の暗殺から10年後に建立された哀悼碑。



1878年、利通は自宅から赤坂御所に向かう途中、紀尾井坂の手前で加賀藩士だった島田一郎らに斬殺された。
説明板に掲示されている安政3年(1856)の地図によると、まだ御掘に掛かる弁慶橋はなく、清水谷公園は紀伊和歌山藩の屋敷があったことがわかる。




2024.7.23

後日、仕事帰りに大久保利通の高輪別邸跡へ。現在はマンションの一角に利通を祀る祠が残るが、入口もなく参拝はできない様子だった。説明板やそれを示すものもない。また墓のある青山霊園を向いているため、植栽に遮られ道路側からはよく見えない。

この祠の前に、暗殺された時に乗っていた馬車が保管されていたという。




次は長期休館中の畠山記念館。庭園だけでも開放していないかと思い向かうが、やはり工事中で立ち入れなかった。目的は庭園内に現存する島津重豪が建立した亀岡十勝詩碑。



江戸時代、重豪は薩摩藩高輪藩邸に隠館を造り1796年に隠居した。同時に邸園を蓬山と総称し整備している。その景勝を詠んだ十篇の詩を刻んだ詩碑が亀岡十勝詩碑だという。

現在の畠山記念館は薩摩出身の寺島宗則の屋敷があった所で、なんらかの理由で薩摩藩高輪藩邸から移されたと思われる。

7/29/2024

舞鶴城屋形跡 (2)・金剛寺跡 (2)・大隅国分寺跡


2024.6.9 (2)



島津義久は隼人城を後詰めの城として、その南麓に舞鶴城ともよばれる国分新城を築城。そして1604年に富隈城から移り住み、没するまで在城した。

霧島市立国分郷土館に掲示されていた御屋形(国分新城)略図から推測すると、国分小学校から国分高等学校の敷地半分にあたるだろうか。残りの半分は衆中屋敷や犬馬場と記され、麓側には伊勢宮が鎮座する。そこに通じる道を境に石積みも異なっていて、国分小学校側は野面積み、一方の国分高等学校側は石垣上に白塗りの壁が設けられている。

国分小学校前の石垣と堀跡。



国分高等学校前。



重久の細山田氏が島津氏から拝領したといわれ、元は城内にあったものだと考えられている朱門。1963年に国分市に寄贈され、大隅国分寺跡に移築保存されていたが台風被害に遭い、ここに修復を経て復元された。




金剛寺跡。
ここから国分新城跡、さらに大隅国分寺跡へとまっすぐ道が通っているのは、1604年に城下町の整備が行われた名残り。時期も同じく金剛寺が創建され、現在は義久の遺骨の一部(抜歯といわれる)が祀られる5m超えの三重石塔が建っている。



塔身に刻まれた義久の法名「妙谷寺殿貫明在中庵主」。



 5年前に訪れた時は気にも止めなかったが、玉垣内の宝篋印塔が気になった。




奈良時代、災害や疫病の流行に見舞われた世情に、国家鎮護と五穀豊穣を願い聖武天皇が国ごとに寺院の建立を命じる詔勅を出した。国ごとに僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)を建立することになったが、大隅国分寺の建立年代は不明だという。
また国分新城の城下町整備、廃仏毀釈によってそのほとんどが破壊された。



現在、だだっ広い敷地に集められた石造物の一画がある。



多重層塔は康治元年(1142年)に国分寺の再興を祈願して建てられた。上の2段は石質が違うことから、後世のものだという。
その他、金剛力士像や戦国時代の国分寺六観音再興碑など。

7/22/2024

蒲生麓・隼人城跡


2024.6.9 (1)

この日は国分に泊まって、翌朝には東京に帰る予定。その道すがら蒲生に立ち寄った。
1826年再建の御仮屋門。



御仮屋の周辺には麓が形成され、現在でも当時を偲ぶ町並みが残っている。
西馬場。



蒲生氏12代 清寛が蒲生郷の菩提寺として開基した永興寺。



敷地はこの駐車場から蒲生小学校まで及び、蒲生で最も大きい規模を誇っていた。蒲生観光交流センターに、寺の遺品だという1849年鋳造の釣鐘が展示されている。



蒲生和紙を使用した蒲生城の御城印を購入。




国分に移動。城山公園として整備された隼人城跡へ。かつての曲輪と思われる所に建てられた霧島市立国分郷土館。駐車場にある橘木城跡供養塔。



南北朝時代、橘木城をめぐる戦さで命を落とした兵士を供養するための石碑だと考えられている。元々橘木城跡にあったもの。

左隣には国分重久から移された税所篤貞と篤員の墓がある。税所氏は大隅国曽於郡を領していた豪族。



頂上の城山公園から上井城跡方面を望む。



由緒不明の祠。



児童の森(フィールドアスレチック)に通じる搦手口は立入禁止で行けなかったが、遺構が見られるという。
また1周約1,400mもあるゴーカートが山の斜面にコースが設けられている。何か遺構がないかと思ったけど特にこれと思えるものはなかった。

ちょうどホテルから見えた隼人城跡。遠景。


7/14/2024

造士館跡・演武館跡・医学院跡・鬢石

2024.6.7 (2)

1773年、島津氏25代 重豪は人材育成を目的とした藩校 造士館(聖堂)、演武館(武芸稽古場)を創設した。場所は鶴丸城下、現在の中央公園にあたり、以前掲載した標柱の裏側に石碑が建てられている。


中央公園。



造士館では城下士や外城士が主に儒学を学び、演武館では示現流剣術の東郷氏や御家伝犬追物の川上氏などが武芸の指導にあたった。
1871年に廃校となっていたが、最後の薩摩藩主で公爵 島津忠義の多額な寄付により県立中学造士館として再興を果たす。その後、収容や合併を経て現在の県立甲南高校へと至る。

上山城跡中腹には日露戦争で没した造士館出身者を慰霊するため、忠芬義芳の碑が建てられた。



さらに重豪は1774年、中央公園から照国通りを挟んだ所に医学院を設立。医学書の講義や討論が行われた。



中央公園にも石碑がある。



こういった施設の運営は藩が負担していて、災害なども重なると財政を圧迫し莫大な負債を抱えることになるが、薩摩藩発展の礎を築いた功績は大きい。

また重豪の娘 茂姫が婚約していた家斉が将軍に就くと、義父となり高輪下馬将軍とよばれ、政界に多大な影響力を持つようになった。そして他藩に子を養子に送り出し、中津藩5代 奥平昌高や福岡藩11代 黒田長溥、八戸藩9代 南部信順と、それぞれが藩主の座に就いている。


2024.6.8

下福元町の鹿児島ゴルフリゾートの先に、鬢石と呼ばれる高さ2mほどの巨石がある。




1527年、当主の返上を求める薩州家 島津実久が兵を進め清水城に迫ると、貴久は僅かな供廻りと脱し田布施城へと逃れた。その道中、この凹みに溜まった水で鬢のほつれを直したといわれている。