1/12/2020

住吉大社


2019.7.15

前日の諸用のため大阪に一泊。

心斎橋からなんば駅で南海本線に乗り換え5駅、10分ぐらいで住吉大社駅に着いた。



反橋を渡って左に行くと、誕生石の看板が見える。





誕生石。



説明板全文。
「丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ殺害されるところを家臣の本田次郎親経によって難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。これを知った住吉の神人田中光宗は湯茶を出して湯薬をすすめて介抱し保護したという。是を知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二ヵ国をあてられた。
これが島津氏の初代 島津三郎忠久公である。この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ、誕生石の聖地に垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。」


誕生石近くの祈祷殿で御朱印を戴く。



また、関ヶ原の戦いで西軍についた島津義弘が、後に島津の退き口といわれる敵中突破を敢行し薩摩への帰路、ここ住吉大社に立ち寄り、騎乗していた愛馬を神馬として献じたとも言い伝えられている。

1/09/2020

郡山八幡神社・菱刈氏歴代の墓・永福寺・六地蔵塔・向花山崎霊園


2019.6.28

菱刈氏は始祖となる重妙が、後白河天皇から菱刈郡両院(太良院、牛屎院)を賜わり、1193年に源頼朝の命によって京都より下向したことに興る。
その菱刈重妙は、宇治平等院と縁故があったため平安文化を取り入れ、本城(太良城)を北薩における拠点として繁栄させた。



大隅合戦以降、島津宗家に恭順を示していた菱刈家15代当主 重猛が1566年に亡くなると、まだ幼い鶴千代(菱刈重広)の家督代として弟の菱刈隆秋が就いた。すると相良氏を後盾に再び反旗を翻す。これに島津貴久は菱刈氏討伐を決行し、わずか2日で馬越城を陥すと、菱刈方は本拠の太良城をはじめ八城を放棄して大口城に立て籠った。
大口城周辺では一進一退が繰り返され、堂崎では島津義弘軍を退け、家老 川上久朗に深傷を負わせるほどの抵抗をみせている。
1569年、長期の籠城戦に島津家久と新納忠元は、荷駄を囮に敵兵を大口城から誘き出し、伏兵をもって挟撃する策を講じた。この戦略で大敗を喫した菱刈方は、3ヶ月後に島津軍が行なった大口城攻めに耐えられず、ついに菱刈隆秋は相良義陽の勧めに和を請い、降伏して大口城を明け渡した。
戦後処理で鶴千代に曽木城が安堵され、功績のあった新納忠元は大口城の城代に任じられた。
そして残る反島津勢力の東郷重尚、入来院重豊が降伏し薩摩平定を成し遂げた。


太良城跡から東に位置する瓜之峰にある菱刈氏歴代の墓。



西川曹源寺跡から移設されたものもあるようだが、菱刈氏当主の墓として最も古い14代 重州の墓。



菱刈氏15代 重猛(左)と16代 重広(右)の墓。




伊佐市菱刈市山の永福寺跡にある町田久倍の墓。



町田氏18代 久倍は菱刈氏討伐で、菱刈氏家臣 有屋田源四郎を討ち取るなどの功により、1570年に市山地頭に任ぜられ市山城主となっている。伊集院地頭になる1578年までここ市山に在住した。
1600年に播磨国明石で亡くなり、母と同じ永福寺に眠るとされるので、石欄に中のもう1基の宝篋印塔はその母のものだと考えられる。



2019.6.29

あけぼの幼稚園と民家の間の道を抜け、左に山道をしばらく行くと、小野領主 園田清左衛門実明の屋敷跡があり、現在は聖宮の六地蔵塔が建っている。



1404年に島津氏8代 久豊から拝領して以来、幕末まで代々園田氏の屋敷があったという。
1526年、島津貴久は島津氏14代 勝久(忠兼)の養子に迎えられ、島津本宗家の家督を継承し清水城を居城とした。これに不満に持った薩州家 島津実久は、島津忠良方の一宇治城、日置城、谷山城を陥し清水城にまで迫った。この時、島津貴久と共に城を脱した8人のうちの1人が園田実明で、小野の屋敷に匿い追手からの追跡を回避し、貴久は無事に田布施(亀ヶ城)に逃れた。そして実久は勝久に守護職を復権させている。
また後年、川で大根を洗っていた園田実明の娘(宰相夫人)を島津義弘が見初め、後妻に迎えた話しはよく知られている。ただ下級武士の家柄だったということで、広瀬助宗の養女となって嫁いだようである。広瀬夫人ともいわれるのはそのため。


園田実明屋敷跡の近くには、島津貴久が、1560年頃建てた六地蔵塔がもう一基ある。敵味方関係なく戦死者の霊を弔うためのもので、6面にそれぞれ地蔵尊を刻んだ石塔は50基余にも及ぶという。




復興中の鶴丸城御楼門を横目に空港へと向かう。




ちょうど今日から尚古集成館 別館で、「戦国大名島津氏展」が開催されていたため立ち寄った。
印象に残った展示物は、伝 島津豊久所用の紺糸威腹巻、関ヶ原の退き口で柏木源藤が井伊直政を撃った銃など。




向花山崎霊園にある島津氏家老 山田有信の供養塔。
小丸川とその支流である切原川に挟まれた高城の城主で、1578年の大友宗麟との耳川の戦い(高城川合戦)、1587年の豊臣秀吉の九州征伐(根白坂の戦い)と2度の大合戦でも落城しなかった名将として語り継がれている。嫡男は山田有栄。


12/16/2019

曽木の滝・関白陣跡・新納忠元公廟所・忠元神社


2019.6.28

入来から伊佐市へ移動、川内川上流の曽木の滝へ向かう。朝の大雨で水が濁り、増した水嵩は圧巻だった。



1587年、九州征伐を成した豊臣秀吉は、島津義弘に「祁答院に出て、曽木の滝を見物し、大口より肥後に帰らん」と帰路を示している。
その大口地頭 新納忠元は、島津義久が降伏した後も抗戦態勢を崩していなかったが、主君の命に仕方なく従った。
そして関白陣で忠元は秀吉と会見し、一緒に清水神社境内から曽木の滝を見物したことが伝わっている。
観音渕から滝つぼの渓流を見ることを勧め、隙があれば秀吉を突き落とそうと考えていた。ところが秀吉もさるもの、心を見通して見物する間、忠元の袖をしっかりつかまえ体をすり寄せ一時も放さなかった。秀吉の人の心を見抜く力に敬服したという。



天堂ケ尾の山頂にある関白陣跡。



山腹には、豊臣秀吉が築いたと思われる遺構がある。すでに泰平寺で和議が成立した後のことで疑問も残るが、薩摩の領主に天下人としての権威を誇示するため、防塁を築いたのではないかと考えられているとか。

新納武蔵守忠元碑の碑文には、「関白豊臣秀吉 武威ヲ揮ヒテ薩摩ノ地二大軍ヲ下シ 帰ルニ臨ミ 我曽木郷 天堂ケ尾二陣シ 北薩ノ重鎮 新納武蔵守忠元ヲ引見ス」と刻まれている。




この碑銘にまつわる逸話が興味深い。
日露戦争の軍人 大脇三四郎は、東郷平八郎元師邸を訪ね、関白陣の碑銘をお願いした。しかし元師は「島津公に手を着かせた豊臣秀吉を好まない」と断ったとか。
ねばり強くお願いしたところ、戦友の誼みでもって新納武蔵守忠元碑の碑銘を与えたという。



関白陣跡から新納忠元公廟所へ、車で20分ぐらい移動。
1610年、新納忠元は40年近く地頭を務めた大口で亡くなった。原田天龍寺で荼毘(火葬)に付されこの地に眠る。



新納忠元と妻の宝篋印塔。両脇は殉死者 伊地知又十郎(右)、宮竹休兵衛(左)の墓石が霊屋に安置されている。




すぐ近くにある新納忠元を祀った忠元神社。



創建された1844年、調所笑左衛門広郷が奉納した手水鉢が現存。

12/05/2019

清色城・寿昌寺跡


2019.6.28

清色城麓には、武家屋敷群のほか入来麓観光案内所や入来郷土館などの施設があり、1日潰れてしまいそうなので清色城の登城は諦めた。

まず入来麓観光案内所で情報収集し、清色城の城郭符と入来町の文化財という冊子を購入。



続いて目の前の入来郷土館へ。2Fの職員に声をかけて見学させてもらう規模のものだが、展示品は唐草十文字の陣羽織や入来文書(原本は東京大学に移管)のほか、29代 入来院公寛に島津久光の娘 於珍が輿入れの際、持参した長持などがあった。

唐草十文字は、1702年に島津氏20代 島津綱貴から与えられ、以降入来院本宗家の家紋となっている。


入来院地頭渋谷氏一族、入来院氏が代々居城とした清色城。
入来小学校前(お仮屋跡)の清色城の碑。




後日(2021.8.10)、宮之城へ向かう途中、前回登れなかった清色城跡に立ち寄ったので追記。
入来小学校正門階段前から尾迫馬場の方へ回り本丸を目指す。



シラス台地を空堀で区切った特徴があり、本丸と松尾城間の堀切はほぼ垂直の壁を成している。



本丸跡。



物見之段跡には、見張り台のものと思われる礎石。



さらに進むと入来小学校のプール横に出てくる。


相模国の渋谷光重は三浦氏、千葉氏を討伐した宝治合戦(1247年)の恩賞として、千葉氏の旧領北薩の地頭職を得た。そして5人の息子たちに下向させ東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城を割拠しそれぞれ所領させた。入来院に入った渋谷定心は祖となり、以降当地を治めた。

居城とした清色城について、三国名勝図会には「宝治2年(1248年)の春、始めて入部し此清色城を治所とし其家累世居城せり。因て入来院、若くは清色を家號とす。」とある。しかしそれ以前に入来院頼宗が居城との記述があり、築城の時期は定まっていない。


島津宗家の家督をめぐる内紛が起こった戦国期、入来院氏当主は11代 入来院重聡。
守護職を狙う薩州家 島津実久と対立関係にあった島津宗家 島津勝久は、伊作家の島津忠良、島津貴久を頼った。これまで抵抗と服従を繰り返してきた入来院氏ではあるが、島津実久に所領を侵攻されていた入来院重聡は、島津宗家に味方し娘(雪窓夫人)を島津貴久に嫁がせ友好関係を結んでいる。後に三州統一を果たす義久、義弘、歳久の生母として知られる人物である。

後を継いだ入来院重朝、そして重嗣は度々島津宗家に叛いたがついに降伏し、本領である入来院以外の地を召し上げられた。その後は島津氏の勢力拡大に助力している。
しかし、1583年に亡くなった入来院氏14代 入来院重豊には男子がいなかったため、島津以久の子 重時が養子に入り家督を継いだ。これによって完全に島津氏一門に取り込まれることとなった。


清色城跡から樋脇川の清色橋を渡ったすぐ右手、入来院家の菩提寺であった寿昌寺跡。
江戸時代初期のものといわれる仁王像が残るが、それには下半身がない。ある人が切り取って石臼にしたためで、その人は仏罰を受け歩けなくなったという。



鳥居を背に左奥に見えているのが、お石塔と呼ばれる入来院領主家代々の墓地。不自然に整列した祠墓塔群は、1666年にここに移された寄せ墓である。



入来院氏初代 定心と夫人の墓。

 
  
入来院氏15代 入来院重時と夫人の墓。
 
 

11/15/2019

串木野城跡・南方神社・串木野氏の墓・大中公の廟


2019.6.27

市来から北上、串木野市の串木野城跡へ。

串木野の場所柄、島津宗家にとって出水の木牟礼城への要路であり、南北朝以降も北薩の雄族、渋谷氏一族を牽制するうえでの重要な要所であった。

串木野城を主城として北側に五反田川が流れ、坂之下栫城と浜ケ城が出城として東西に配置されていた。その坂之下栫城で1568年、島津義久と渋谷衆との戦いがあり渋谷衆53人が討死した、と三国名勝図絵に記述がある。

1570年、島津家久が薩摩国隈之城と串木野の地頭となり、佐土原を所領するまでの約10年間に及び串木野城を居城とした。また島津豊久の生誕地としても知られている。



もともと串木野城主であった串木野氏は、薩摩郡本地頭 平忠直の子である串木野三郎平忠道に始まり、5代 忠秋まで約120年にわたってこの地を治めていた。
南北朝時代の1342年、南朝方の串木野忠秋は、北朝方の島津貞久との争いに敗れ、同じ薩摩平氏の知覧の地へと逃れた。
1355年には三条泰季が指揮する南朝方の市来氏家、鮫島蓮道、知覧忠世らが串木野城を攻めたが、島津貞久の子 師久に阻まれ奪還することはできなかった。

島津氏10代 立久のころ、川上忠塞が串木野城主に任じられる。それから3代目の川上忠克は次女を薩州家 島津実久の継室に入れ、実久の家老として島津宗家と対立関係になっている。
しかし1539年、島津貴久が市来鶴丸城を落とした時に降伏、忠克は流罪となったがその後許され、島津宗家を家老として支えた。

南九州に於いてのこういった反島津情勢は、鎌倉時代初期の1197年、東国から薩隅日の守護職として下った島津氏に対し、在地官人の豪族らとの軋轢が根付いていて、時代情勢を背景に南朝方へ恭順する構図が成り立っていた。



串木野城跡の東側に鎮座する南方神社は、かつての曲輪で旧入来邸のすぐ横に鎮座している。
1592年、島津義久が文禄の役で肥前名護屋城へ赴く途中、諏訪上下大明神社を参拝したという。

南方神社となったのは明治維新以降。




串木野氏の墓と伝わる墓塔が城跡近くにある。
串木野忠秋のものだとの記述もみられるが、実際は各部を寄せ合わせたもので信憑性は低い。




串木野氏の墓から南九州西回り自動車道方面に向かい大中公の廟へ。

大中公とは、戒名の南林寺殿大中良等庵主からとったもので、島津氏15代 島津貴久を指す。島津家久が父 貴久の御霊を迎え、良福寺に位牌を祀って朝夕拝んでいたという。

自動車道整備に伴い現在地に移された。


11/07/2019

丹後局舟着場跡之碑・鍋ヶ城・湯田稲荷神社・市来鶴丸城跡・来迎寺跡・法城山龍雲寺跡


2019.6.27

2泊3日の帰省。昼過ぎに鹿児島空港に着き、レンタカーを借りてその足で市来へ向かう。

市来駅前の丹後局舟着場跡之碑。
三国名勝図会の花尾大権現社には、忠久公が薩隅日の守護職に任ぜられ此国に下って来たとき、丹後局及び惟宗広言を迎え入れ、広言を市来院の地頭職とし、丹後局には厚地村、東俣村を湯沐の邑として与えられた、とある。



その下向時の舟着場を示す石碑だが、実際はもうちょっと重信川の方へ下ったところだといわれ、民家の庭先にそれを示す標柱が建っている。

大里川にそそぐ重信川の名は、大里村木崎が丹後局の従臣 重信某に与えらたことから、それに由来すると推測される。




惟宗広言と丹後局が居城としていた鍋ヶ城。宝亀年間(770年~780年)に大蔵政房によって築かれたとされる。市来院郡司として薩摩に下向して以来、市来氏と称して代々引き継がれた。しかし4代 家房には男子がなく、外孫の惟宗政家を養子にとり郡司職を譲った。惟宗姓市来氏となったことにより、同族でありながら恩顧を受けている島津氏に対し不満が芽生え、島津氏との間で系図相論が起こっている。
市来鶴丸城が築城されてからは、鍋ヶ城から政の場が移行されたと考えるのが妥当か。

その広大な平地中央に、惟宗広言のものと伝わる墓が建っている。しかし草木が覆い被さっていて、その全体像の確認は難しかった。






摂州住吉に於いて、丹後局はすでに日が暮れ大雨のなか、狐火の擁護によって島津忠久を無事に出産できたといい、その霊験を偲び、1221年に勧請したと伝わる湯田稲荷神社。

鹿児島で最古の稲荷神社とされるが、1683年の湯田新田開発に際し、当地に遷され現在に至っている。






市来氏の菩提寺であった来迎寺跡に、この地を統治していた市来氏歴代墓塔群が建っている。



三国名勝図会には、丹後局の御霊牌を安置したとあり、丹後局のものだと伝わる墓がある。
また惟宗広言、丹後局従臣の墓といわれるものもあると記されているが、今となっては判別がつかない。

伝 丹後局の墓。




市来院郡司の市来氏居城として、1244年に築かれた市来鶴丸城。
説明板によると、鶴丸城と呼ばれる曲輪群と御惣坊城と呼ばれる曲輪群で構成していたという。古城主由来記に市来家房が最初の城主と記されていて、また他の古文書には、1337年に市来時家と島津貞久の庶長子、川上頼久(川上氏初代当主)がこの城で合戦したと記載されている、とある。

平定された市来氏であったが1462年、再び12代 市来久家が叛いたため、島津立久(島津氏10代当主、家督継承は1470年)はこれを討ち市来氏は滅ぼされた。


鶴丸城跡まで、鶴丸小学校と春日神社の間にある鶴丸城址登道の碑から約350m。




掲示されている鳥瞰図は、最大規模に拡張されたと推定される天文~天正年間(1540年代~1570年代)の復元図だという。
まさに島津薩州家領から島津相州家領になった頃に始まって、島津宗家が盤石な基盤を築きあげた時期と重なる。それに伴い発展していった様が目に浮かぶ。

1539年、相州家の島津忠良と島津貴久は、薩州家の加世田別府城を陥し市来鶴丸城を攻めた。島津実久の弟 島津忠辰を討ち取り城将 新納忠苗を降した。そして市来鶴丸城には伊集院忠朗が入城した。


鶴丸城跡まで30m辺りのところまで来ると、左手に堀切が確認できる。



鶴丸城跡にはそれを示す碑と門柱らしき礎石が現存。




また宣教師ザビエルが滞在したことでも知られる市来鶴丸城。
新納康久が城主の頃、家老ミゲルはザビエルを招き、康久から城内での布教が許された。ザビエルはここに10日間滞在し、長崎県の平戸へ旅立っている。


麓の鶴丸小学校正門の石垣は、1893年に構築された近世のもの。




市来鶴丸城からすぐ近くの法城山龍雲寺跡。



島津立久は、菩提寺として龍雲寺を築いた。1474年、立久が亡くなると、遺言によりここに葬られた。後に福昌寺に改葬され、現在は墓祠のみとなっている。
島津立久公墓地跡。