3/30/2021

林之城跡・垂水島津家墓所・廻城跡・島津忠将供養塔

2020.12.29

鴨池・垂水フェリーで大隅半島へ上陸、そして垂水小学校(林之城跡)を目指す。

1611年に垂水島津家4代当主 久信が家臣らと共に垂水城からここに移って以来、明治維新まで垂水島津家の居城となった。現在も正門右手に長屋と石垣が残っている。



垂水小学校裏手の垂水島津家の祖 島津忠将を祀った殿加神社。




元は1565年に2代 以久が国分の清水に創建したもので、1625年に久信によって垂水城天下比良に勧請された。当時は忠将の愛馬の白馬を埋葬した馬頭観音堂も建立されたというが、現在は社殿のみで、それも1985年に建て直され近代的な様に変わっている。



垂水島津家の菩提寺(宝厳山心翁寺)跡に、垂水島津家墓所として歴代当主の墓碑がある。



16代 貴暢の墓碑は初代 忠将、3代 彰久が一緒に祀られた合祀墓と説明板にはあるが、碑銘に2代 以久、4代 久信の名も刻まれている。



すぐ左にある久信の宝篋印塔。1971年に安養寺から移された。



関ヶ原の戦いで島津豊久が戦死し、幕府直轄地となっていた佐土原を島津以久が拝領した。既に子の彰久は文禄の役で病没していたため、1599年に与えられた垂水の領地は孫の久信が治めることになる。
また久信は島津宗家16代当主 島津義久の外孫にあたり、決定的な血統の後継者がいない当主の座に島津忠恒と共に候補に挙げられた。

5代 久敏の墓碑だけ一般墓に紛れている。久敏は江戸で早世したため、薩摩藩主 島津家久の七男 忠紀が垂水島津家6代に就任した。




1545年、飫肥城主 島津忠広(豊州島津家)と都城城主 北郷忠相は、島津貴久を薩隅日三州の守護職として認め帰順した。両家の繋がりは固く、北郷忠相の子 北郷忠親が豊州島津家の養子に入り、1549年に5代当主として家督を継いでいる。
以降、南下を目論む日向都於郡の伊東義祐、飫肥の南に隣接する肝付兼続の盟約により度重なる侵攻を受けていた忠親は、1560年に島津本家に救援を求めた。これに島津貴久は島津忠親の養子として、子の島津義弘を飫肥城に入れた。

肝付兼続は島津忠良の娘 阿南を正室に迎え、妹を島津貴久に嫁がせていて、島津家と政略的な友好関係を築いていたが、大隅の覇権を握りたい肝付氏と三州統一を目指す島津本家との衝突は不可避となっていた。

1561年、肝付兼続が旅宿に島津貴久を宴会に招き料理を振る舞った際、「鶴の吸い物がないのは残念だ」(肝付家は二羽に向かい鶴を家紋とする)と島津家家老 伊集院忠朗が罵ったとか。それに対して「次は島津家が狐を振る舞ってほしい」との返しに忠朗が憤慨し、刀で肝付家の帷幕を斬り裂いたという。しかし翌日に開かれた犬追物で、強風によって風通しから裂けたともいわれ真実はわからない。いづれにせよ、後世の創作である可能性は高い。

薩摩から高山に戻った肝付兼続は、戦さの準備を始め島津方の廻久元が城主を務める廻城を落とした。

県道478号線から400m入ったところにある廻城本丸跡地の碑。



碑の右手が二の丸で、この駐車場が廻城の搦手にあたる。本丸へは石碑と逆側に道があって、二の丸を左に右手が崖の道を進む。空堀や片側をほぼ垂直に削り落とした遺構らしきものがあった。




廻城の奪還をねらう島津貴久は惣陣ヶ丘に本陣を構え、竹原山と馬立塁にそれぞれ陣を敷いて廻城を包囲。島津家久、上井覚兼が初陣を飾った戦さでもあった。

肝付方から竹原山の陣が奇襲をかけられ、馬立塁の島津忠将は家臣 町田忠林の制止を振りきり救援に向かった。しかし伏兵の待ち伏せに遭い忠将はじめ町田忠林、石谷忠成共々討死した。廻城の奪還は叶ったものの、代償はあまりにも大きかった。


かつては水が湧出し茶屋が栄え、現在は整備された中茶屋公園の斜め向かい側に、旧日州街道(高岡筋)の案内板がある。しばらく上がると、島津忠将の供養塔が建っている。

1575年に垂水島津家2代当主 島津以久によって建てられたが後に倒壊、現在の供養塔は7代 久治が再建したものだという。