2/19/2024

妙円寺・石谷高久の墓・伏野原古戦場・勝岡城跡(犬迫塁)


2023.12.28 (5)〜12.29 (1)

曹洞宗寺院の妙円寺は、伊集院忠国の第11子 石屋真梁禅師により1390年に建立された。生前に島津義弘が自らの菩提寺と定め、寺領500石に及んだ寺院である。廃仏毀釈を経て、現在の徳重神社がある場所からここに移転復興された。



1394年に曹洞宗総本山である福昌寺の開山ともなった石屋真梁禅師の碑。




妙円寺から伊集院駅方面へ、フィットネスクラブと整形外科の間に石谷高久の墓碑がある。
島津氏7代 元久が亡くなると、弟の久豊と伊集院頼久との間で相続争いが起こり、その和解の条件で伊集院側から頼久の娘が久豊に嫁ぐことになり、化粧料として石谷が島津氏の直轄地とされた。
後に島津氏9代 忠国から石谷を与えられた町田氏12代 高久は石谷(16代 忠栄から町田に復姓)を名乗る。しかし旧来の領地であった石谷を町田氏が得たことに不満があった伊集院熙久は、1449年に忠国の名をかたり一宇治城に呼び出し妙円寺山門に兵を伏せた。そして馳せ参じた高久を騙し討ちとする。これに怒った忠国は翌年に一宇治城を攻め熙久は肥後へ逃亡、一宇治城は島津氏の配下に置かれる。
高久が謀殺されたここに、町田氏26代 久視によって1812年に墓碑が建てられた。




1536年、薩州家 島津実久に与していた町田氏16代 忠栄は、相州家 島津忠良と貴久の誘いに内応する。忠栄の異志を危惧した実久は、直臣の大寺資安を石谷城に入れ、鹿児島に石谷梅久らを人質として置いた。密かに忠栄は忠良と連絡を取り挙兵すると、相州家方の兵を石谷城に引き入れることに成功し資安を討ち取った。
一方で梅久には伊集院に向かうよう内々に伝えている。その挙兵の前日、鹿児島を脱出した梅久は忠梅(後の久徳)を伊集院へと逃し、石谷城の様子を覗いに行ったところ、石谷城攻めに備えていた肥後助西の手と遭遇、応戦するも一族の町田忠親とその弟の三郎右衛門尉共々討死した。

その野戦の場となった伏野原古戦場。



梅久と町田忠親兄弟の墓碑は戦死した伏野原にあったというが、後に永福寺墓地へと改葬された。
この戦さでなんとか伊集院に落ちのびた忠栄ら町田一族は、忠良方として肥後助西の守る竹之山攻めに従軍。福山も制圧すると勝岡城(犬迫塁)も1537年に降り、忠良と貴久は犬迫まで進軍した。実久は鹿児島から兵を出しこれを迎え撃つが、小野から園田実明が背後をつき、実久軍は小野栗山坂下で総崩れとなり谷山へと退いた。

犬迫小学校近くのひまわり園横にある勝岡城跡。



甲突川支流の犬迫川を堀とし小山田氏が築城、その後は比志島氏、島津氏が在城したといわれている。1526年の島津忠兼の書状によると、料所の犬迫15町の半分を河田氏に与えたという。おそらく比志島氏の庶家にあたる川田氏のことで、本家に献上し比志島氏が勝岡城に入城したと推測できる。麓には、比志島義祐が1530年に建立した八房神社が鎮座する。

登城口のすぐ左側は切りだった崖で、道幅も一人通れるほどしかない。



本丸下曲輪、竪堀の遺構が確認できる。



本丸跡。



城趾碑。


2/09/2024

宗功寺跡 (2)・大石神社・永源寺跡・円明院跡・島津豊州家関係石塔群


2023.12.28 (4)

出水から宮之城、祁答院を通って鹿児島市内へ戻る。以前、休館日で開いてなかった宮之城歴史資料センターへ。テラスから虎居城跡、八女の瀬を見せてもらった。



川内川に吊り橋を掛ける計画があるようで、実現したら城跡が整備されるのではないか、と仰っていた。
また企画展「さつま町と徳川家康」が開催中。宮之城島津家5代 久竹が先代の事績を記した祖先世功碑に、東照大神君(徳川家康)と刻まれているとのこと。



せっかくなので宗功寺跡を再訪。1603年頃、松尾城跡に宮之城島津家2代 忠長が菩提寺として宗功寺を創建。松尾城は虎居城同様、祁答院郡司の大前氏が築城したといわれ、北薩に下向してきた渋谷氏との抗争を繰り返したと想像がつく。1389年から渋谷一族の祁答院氏が在城となる。



祖先世功碑を建立した5代 久竹の墓石。台座に彫刻が施された祠堂様式で、中に位牌が安置されている。



宗功寺跡から祁答院町へ向かうが、この機会に遠回りして大石神社に立ち寄った。



祭神は薩摩祁答院の領主だった祁答院良重と島津歳久。書き置きの御朱印は何故か全て10月1日付。




祁答院町へ。黒木小学校周辺には、島津宗家から分家した島津季久を初代とする豊州島津家関係の史跡がある。1634年、宮之城島津家が治めていた黒木の地に、豊州島津家7代 久賀が私領地として帖佐から移った。豊州島津家は後に黒木島津家ともいわれるようになる。

瑞泉山永源寺跡。豊州島津家2代 忠廉が菩提寺として帖佐に創建。領地替えとともに飫肥、平松、黒木と移されていった。




元は岩剱神社前にあった円明院。重富島津家を興した島津忠紀が平松を領したことにより、豊州島津家12代 久起が1739年に黒木へ移し祈願道場とした。
廃仏毀釈で廃寺となったが、仁王像は破壊されず地中に埋められ、後に掘り出されたため完全体で残っている。
また岩剱神社門前の石橋は、円明院橋といわれる幕末に架けられたもの。




愛宕神社の裏手にある島津豊州家関係石塔群。



ここに廃寺となった永源寺、円明院から一族の墓石が移された。自然石の墓は豊州島津家9代 久邦の弟 島津久可のもの。



月桂浄心大居士と法名が刻まれた小石塔は、100年忌に供養塔として建立されたといわれている。墓石は上部が剥落して解読は不可能だが、平山月桂浄心居士と法名が刻まれていたらしい。平山とは久可が平山氏の嫡嗣に入ったことによる。

2/03/2024

出水亀ヶ城


2023.12.28 (3)

出水亀ヶ城は、平良川と米ノ津川に挟まれた丘陵地を利用した中世山城で、建久年間(1190年〜1199年)に和泉兼保が築いたとされる。以後1318年、島津氏4代 忠宗の子 忠氏が初代 島津和泉氏として入城した。この5代 和泉直久は伊集院頼久の乱に端を発した争いで、1417年に島津氏8代 久豊に従軍、川辺の平山城を攻めた。その野戦において弟の忠次と共に討死し、後継ぎがいなかった島津和泉氏は断絶となる。
そして1453年、島津久豊の2男 用久が薩州家を興し出水亀ヶ城に入り、薩州島津家が約140年に渡り出水を治めることになる。

五万石溝近くの登城口。



出水麓歴史館で伺ったところ、鎖が張られてあまり整備されていないとのことだが、出水小学校裏から林道を進むと城山墓地公園へ抜けられるそうだ。

まず左手にある梅ヶ段は北端に位置し、肥後からの侵攻に備え防御施設を整えていたと思われる。



扇状の虎口。曲輪には土塁が残っている。



さらに林道を進むと右手に大土居の看板があるが、全貌がよくわからない。



迫ノ口(大手口)に通じるようで、この辺りの削平地は林道より低い構造になっている。



大土居から左に進むと捨殿ヶ城、小松ヶ城に行き着く。小松ヶ城の虎口。



土塁。



林道に戻り城山墓地公園方面へ向かう。右手の住吉ケ城は、段状の曲輪でそれぞれに虎口が設けられている。高段の虎口。



城山墓地公園の標柱。