8/31/2023

越前(重富)島津家墓地 (2)・平松城跡


2023.8.14

お盆帰省の途中、越前(重富)島津家墓地へ立ち寄る。



島津氏初代 忠久が鎌倉幕府から越前守護職を与えられ、守護代として2男の忠綱が下向したことにより越前島津家は興る。2代 忠行は下揖保庄地頭として播磨国へ入り、以降は石蜘蛛城を本拠に15代 忠長まで続いた。その忠長は赤松氏に従い浦上氏との抗争で討死し、越前島津家は途絶えることになる。

1666年に遺児 忠之の妻(年代的に無理があるかも)、もしくは遺孫が家名の復興を図り、越前島津家文書と系図を携えて大隅国鹿屋まで至ったがそこで病没したという。この文書が新城島津家から垂水島津家を経て島津本家へと渡ると、文書の出所を確かめたり、龍野の如来寺へ情報収集や播磨揖保庄の見聞などを行なった。

実際に再興されたのは1737年。療養中の島津氏22代 継豊に代わって隠居していた島津吉貴は、2男 忠紀に越前島津家16代を継がせた。重富郷と名付けられた1万石が与えられ領主となる。すでに越前島津家は15代 忠長から忠之、そして義弘(宗賀)へと相続されていたが、系図に従い再興は16代からとなっている。

菩提寺だった紹隆寺跡には16代 忠紀から19代 忠公、21代 珍彦から23代 忠彦の墓がある。
忠公の養子に入って家督を継いだ20代 忠教(久光)は、島津氏29代 忠義の後見役として本家に戻ったため、死後は福昌寺に葬られた。

再興した16代 忠紀の墓。



島津氏26代 斉宣の子 19代 忠公の墓。



島津久光の3男で最後の領主となった21代 珍彦の墓。




近くには越前島津家が廃藩置県まで居館とした平松城跡がある。現在は重富小学校となっていて、野面積みの石垣が現存。



平松城は島津義弘が岩剣城の戦い後、在番となり麓に平松城を築いたことに始まる。関ヶ原の敗戦後、徳川家康に恭順の意を示すため桜島に蟄居、そして加治木に移るまで居館とした。

8/13/2023

寿福寺


2023.8.11

1200年に北条政子が明庵栄西禅師を開山とし建立した寿福寺。鎌倉駅西口から680mのこの地は、源頼朝が鎌倉入りする以前に父 義朝が館を構えていたといわれている。



総門から参道突き当たりの中門を左へ道沿いに行くと、永愛坂という階段向かい一画に黒岡家の墓石が並ぶ。



黒岡家は豊州島津家7代 久賀の2男 島津久元を祖とする。久元が別家を立て、豊州島津家6代 朝久の室 御屋地(島津義弘の娘)の遺領を引き継いだことに始まった。正徳期(1711年〜1716年)から黒岡姓を名乗る。

貴族院海軍中将 黒岡帯刀の墓。



右には室 豊子の墓が並び、後列には父 久直の墓がある。




黒岡家の墓からさらに階段を進み、登りきって左に入ると志和池家の墓が3基並ぶ。



志和池家は、島津氏8代 久豊の5男 豊久を祖とする伯州家の流れ。
宗家の15代家督争いで島津勝久を支持した一族は、当主に就いた島津貴久から逃れ北郷忠相を頼った。そして志和池を領することになった忠光が志和池家を興す。

ここには後世の志和池堯行の墓がある。