10/10/2022

如来寺・石蜘蛛城・大日寺・青山古戦場跡


2022.8.13

夏季休暇に3泊4日で大阪、兵庫をまわった。
大阪駅から東海道・山陽本線で約1時間かけ姫路駅へ。駅前でレンタカーを借り、龍野藩主 脇坂家菩提所の如来寺へ。



ここに越前島津家を興した忠綱の位牌が奉られているという情報から、拝殿裏の墓所も関連するのではと思ったが合致するものは見つけられなかった。
墓地について社務所で話しを伺ったところ、揖保上にあると仰っていたがやはりここまでしかわからない。他の墓所も時間の限り探したが、結局見つけられなかった。



道の駅「みつ」で食事を済ませ、朝日山の北西に位置する石蜘蛛城へ。
播磨国立岡山の石蜘蛛城は、越前島津氏2代 忠行が築城したといわれている。忠行が播磨国下揖保荘地頭に任じられ、越前から移住し15代 忠長まで続いたことから播磨島津家ともいう。

石蜘蛛城遠景。



登城口から頂上までは舗装されているものの、チェーンが張られ車の乗り入れはできない。
ここから徒歩で460m上がると、主郭と思われる削平地に太子町上水道南配水池がある。
途中、立岡山北配水池を曲がった所の説明板によると、「立岡山にある中世の城跡、鎌倉後期の弘安2(1279)年 従五位 島津左衛門大夫忠行が、下揖保荘(今の龍野市揖保町~揖保川町東部辺り)と布施郷(今の龍野市揖西町南西部辺り)の地頭に任命され、一時この山頂に城を築いたとされる。」とある。

遺構はないようだが、いつの時代かの石積みされた一画があった。



また、蓮常寺の方から登山林道が整備されているみたいだけど、使われている様子もなく草が生い茂り道らしいものは確認できない。

頂上から朝日山方面を望む。




播磨守護職 赤松氏を凌ぐ勢力を持つようになった重臣 浦上氏。次第に対立していった両氏の抗争で、1534年に朝日山の戦いが起こる。浦上宗景から赤松方の石蜘蛛城が攻められ、時の城主 島津忠長は城を出て応戦したが、叔父の重宗らと朝日山大日寺麓で討死したという。

朝日山大日寺山門。



大日寺の説明板によると、「天文~元亀(1532~1570年)にかけて3度にわたる朝日山の合戦で寺は全焼した」とある。

忠長の死によって越前島津家(播磨島津家)は事実上15代で途絶えた。
それから時が下った1737年、島津宗家によって越前島津家は復興されることになる。
島津氏22代 島津継豊の弟 忠紀は帖佐郷を領地として与えられ、越前島津氏16代となって継いだ。郷名は越前国の地名から重富と名付けられたため重富島津家といわれるようになった。
一門家の筆頭として垂水島津家、加治木島津家、今和泉島津家と共に島津本宗家に次ぐ格付けとされ、後に島津忠教(久光)が養子となり重富島津家当主を継いだ。また久光の命によって播磨島津家墓地が整備されたという。



次は青山古戦場跡へ。
島津忠長の遺児 忠之は、赤松晴政から布施郷と下揖保荘の地頭職を還付された。
1569年、赤松政秀に従い小寺政職と衝突した青山の合戦は、小寺氏家臣 黒田孝高(官兵衛)が土器山に布陣し迎え撃った。この戦で忠之が討死、まだ2歳の忠之嫡男 義弘は、石蜘蛛城から下揖保庄上村へ落ち延びたという。合戦の地となった千石池に古戦場跡の石碑が建っている。


現在の千石池。




後に義弘は、赤松祐高に従い豊臣秀頼に仕え、1614年の大坂冬の陣では大坂城に籠城した。
写真は大阪城公園駅にある大阪城のジオラマ。



御座船で内堀から撮った大阪城天守。