8/08/2022

関ヶ原 (2)


2022.5.7

福井から東京への帰りがてら、5年ぶりの関ヶ原へ。



目的は、岐阜関ヶ原古戦場記念館で開催中の「島津義弘と関ヶ原の戦い」。1Fの一画に島津家関ヶ原合戦関係年表、島津義弘所用甲冑(想像復元)などが展示されていた。



そして予約しておいた常設のグラウンド・ビジョン。神田伯山氏の解説により、床面スクリーンに会津征伐、前哨戦から関ヶ原への進軍経路、本戦の様子が映し出される。
次はシアターへ移動し、関ヶ原の戦いを将兵の視点から映像で体験。
5F展望室は、360度ガラス張りになっていて古戦場が一望できるので、陣形や戦局を妄想するのもいいかもしれない。



昼食を伊吹庵でとり、別館ショップで買い物。



御朱印は陣跡を訪れて、写真を見せないと購入ができないらしいので島津義弘陣跡へ。




実際はここから北西約250mの薩摩池付近に陣を敷いていた。池の水は軍用として使用された。



ショップに戻って御朱印を無事に収得。


8/06/2022

専光寺・越前島津屋敷跡伝承地・栗屋(厨)城跡


2022.5.6

福井駅から徒歩15分、福井鉄道福武線の商工会議所前にある専光寺。



薩摩、大隅、日向国守護職の島津忠久は、1221年に越前国守護職に補任された。忠久の次男 忠綱が守護代として下向し、越前島津氏を称す。その越前島津氏初代 忠綱の三男 忠景の氏族で、その子 忠宗を父とする忠章は、真宗三門徒派に帰依し出家すると祖海と号した。

忠章が上河北に創建した専光寺は、生部町にあった真言宗の寺院を1321年に真宗三門徒派として移したものだという。さらに1745年に西木田へ移動となり現在に至る。

越前島津氏2代 忠行が播磨国に転封となる一方、この氏族は越前に残り土着したため、忠景の系統を越前島津氏とする系図もあり、個人的にはそれが正統だと思う。
境内左手、昭和61年建立の島津家墓は、墓碑に忠綱から忠章までと28代~30代の名が刻まれている。



また専光寺に残る島津石が忠綱の墓石だという疑問に、ちょうど関係者だと思う方が居らしたので所以を伺うことができた。その方が仰るには錦江湾から持ってきた石で、もともと裏庭にあったという。みんなに見てもらえるように正面に出したらしい。ピンク色のツツジに埋まっているのがそれ。



種子島産の八房梅については、「戦火で焼けてしまい、3年後ぐらいに突然息吹いてきたと聞いている」と仰っていた。



一旦ホテルまで戻り、福井駅近くでレンタカーを借りる。30分ほど車で走り一乗谷朝倉館跡、そして明智神社をまわって越前島津屋敷跡伝承地へ。
明智神社から車で5分ぐらい、氷川神社横の道を入って左側にあった。



現地には説明板が設置されているのみで、その範囲や遺構を示すものはない。



以下、説明板より抜粋。
「承久3(1221)年7月12日、島津氏の祖である島津忠久は、承久の乱の功により越前守護に任じられ、次男忠綱が守護代として越前に下向し、栗屋山城(現越前町厨)を築いた。
また同年8月25日には嫡男忠時が生部荘と久安保重富の地頭に補任され、忠綱は代官としてこの地に屋敷を構え居住したと伝えられている。
しかし7年後の安貞2(1228)年5月には後藤基綱(評定衆の一人)が越前守護職に就いており、また仁治3(1242)年2月には忠時は生部荘に替えて和泉国和田郷(現大阪府堺市)地頭に補任されている。こうして島津氏は越前から撤退することとなった。」



忠綱が標高535.7mに城郭を築いたとされる栗屋(厨)城へ。
ふるさと林道から越前西部2号線へ入り、城山参道入口を目指す。舗装されているものの所々落石があったり、くねくねした道の運転にはかなり気をつかった。

第1鳥居から栗屋(厨)城跡の主郭部を目指す。



小城を左手にした堀底。



小城から尾根上に延び、愛染明王社へとつながる道の途中、縄張り図には堀切と記してあるが、歩道整備のため埋められたようだ。
第2鳥居の横の竪堀群など、多くの遺構は戦国時代のものと考えられている。



南北朝の動乱のころは、新田義貞に攻められ落城したといわれている。その時の戦死者を弔うため、第2鳥居を上がった主郭部に愛染明王を祀る社殿が建立された。




忠綱の在城後は廃城になったのか、現地の説明板には築城を南北朝時代との見解を示している。

また忠綱は、厨城山近くの瓢箪塚と呼ばれる小丘北側に居館を構えたという。そこに忠綱の墓と伝える五輪塔が残されているが、時間の都合上、瓢箪塚すら見つけることができなかった。