7/31/2019

徳持庵跡・金剛寺跡・舞鶴城屋形跡・遠寿寺跡


2019.5.3

京セラ国分工場から県道472号線を南に下った徳持庵跡に、島津義久の墓所が歩道に沿うようにある。
徳持庵は廃仏毀釈で廃寺となり、金襴の袋に納められていた分骨を、後世の1875年に埋葬した。その墓石には大國豊知主命と刻まれている。



背後に見える上井城跡は、上井覚兼の父 上井薫兼が薩摩国永吉地頭として移封されるまでの居城で、覚兼はここで幼少期を過ごした。



車で北へ約3分の金剛寺跡。
金剛寺は島津義久の祈願所として建てられた。5m以上ある三重の石塔は、義久の抜歯が納められたといわれている。




国分小学校の敷地にかつてあった舞鶴城。
関ヶ原の戦い後、徳川方の侵攻を恐れた島津義久は、国分をそれに対抗する地と定め築城に取り掛かった。1604年に完成すると、富隈城から舞鶴城へと移り住み、城下に碁盤の目をしき寒村だった地を整備。屋形造りではあるが、裏山の隼人城を後詰めとする立地にあった。



朱門は城内のものを移築したといわれているが詳細は不明。



現存する石垣と堀の一部が残る一方で、近年整備された歩道がアンバランスな印象を受ける。




舞鶴城跡から徒歩2~3分の遠寿寺跡に、島津義久夫人 円信院妙蓮の供養塔が残る。
菩提寺であった本成寺に葬られていたが、3女 亀寿が再興し遠寿寺と改名、種子島氏の宗派にならい法華宗の寺だった。当時は義久と妙蓮の位牌が安置されていたという。

岩屋の中に4基の供養塔、その前には由緒不明の宝篋印塔が建っている。

 




以前本能寺を訪れた時、信長公廟の左側に鎮座されている円信院妙蓮の石塔を偶然見つけた。三段構えで手前から徳川九代将軍家重夫人の供養塔、菅中納言局庸子の石碑、島津義久夫人の石塔の順に縦一列に並べられた3石塔。





いろいろ調べたところ、それは本能寺と種子島氏の関係にある。種子島氏12代当主 忠時、13代 恵時は上京し参詣した記録があって、本能寺に帰依していたことが知れる。
また住持の多くが種子島氏の出身だったようで、同寺再興の際は資金援助を種子島氏に頼ったともいわれている。
妙蓮は種子島氏14代当主 種子島時堯の娘。

7/29/2019

加治木肝付氏墓・精矛神社・樺山氏墓石群・富隈城跡


2019.5.3

能仁寺跡から北へ5分ほどの東禅寺跡。左手一番奥にひっそり4基並ぶ加治木肝付氏墓。

相州家の島津貴久と薩州家の島津実久が宗家家督争いのなか、伊地知重貞が実久に加担したため、島津忠良は1527年に加治木城を攻め落とした。そして、戦功のあった肝付兼演が加治木の一部を治めることになった。
しかし1549年、兼演は蒲生氏・渋谷一族らと謀反を起こし、伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの島津軍が加治木城に攻め入った。初めて鉄砲が使われたというこの戦さに降伏した兼演だったが、貴久は再び1550年に加治木を与えた。



一番右の墓塔は、加治木肝付氏3代兼寛(利翁守益庵主)のものだと伝わる。他の石塔は2代 兼盛とその側室といわれるが、刻字がなく断定はできないという。



東禅寺跡のすぐ近くに精矛神社がある。

1869年、加治木島津屋形跡に造営された精矛神社。祭神 島津義弘の没300年にあたる1918年、加治木島津家の別邸 扇和園があった現在の地に遷座された。





文禄の役の際に朝鮮から持ち帰ってきた石臼。後ろには手洗鉢も。


これは朝鮮出兵の際、船の沈没を避けるため武器や食糧で船脚を沈め安定をはかり、帰りは手洗鉢や石臼を底荷として積み込まれたものだと伝わる。

なお、現在の宮司は加治木島津家13代 島津義秀さんが就かれている。



霧島に入って樺山氏墓石群を目指す。
下調べだと公民館裏手の山中にあるようだが、その入り口がなかなか見つからない。近隣の方々に尋ねたところ、ご好意で案内して頂いた。民家脇を入り、水路を渡ってすぐの分岐を左に行くルートをとる。右は私有地とのこと。

元々は4列ぐらい並んでて現在の形に整備されたらしんだけど、復旧の時にパズル状態でぐちゃぐちゃになったと仰っていた。



島津氏4代 忠宗の5男 資久を初代当主とする樺山氏。
9代 樺山善久の妻は島津忠良の娘 御隅、末娘は島津家久に嫁いでいたり、血縁的にも島津氏とのつながりが強かった支族である。

善久のものだといわれる墓は風化が進み、戒名の解読は難しい。



樺山善久(玄佐)は島津氏三州統一の功臣であり、著した玄佐自記は島津家の権力統一過程を如実に示す史料として貴重。

嫡男 忠副は蒲生氏との戦いで討ち死したため、家督を忠助(紹剣)が継承。忠助も紹剣自記を残している。



8分ほど車で移動し、富隈城跡へ。

1595年、豊臣政権に降伏した島津義久は龍伯と号し、隠居先として薩摩国との境に富隈城を築き内城から移り住んだ。城といっても防御機能の低い居館だったといわれている。



城跡は稲荷山公園として整備され、中腹には稲荷神社が鎮座。



義久が富隈に移住した年に、島津家の氏神 稲荷神を勧請して稲荷神社と称した。
その歴史は古く、1375年に大隅守護職 島津氏久が島津祖 島津忠久と夫人を合わせ祀った一ノ宮大明神が元になっている。

1604年、義久は国分に舞鶴城(国分城)を築いて移り住み、富隈城は廃城となった。
現在遺構として、肥後の石工が築いたと伝わる野面積みの石垣が西側と東側に残る。


7/18/2019

稲荷神社・加治木島津屋形跡・能仁寺跡


2019.5.3

総禅寺跡から程近い島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)。

1595年、朝鮮出兵(文禄の役)から帰国した島津義弘は、栗野から帖佐に移りここに館を築いた。



現在、稲荷神社が鎮座しているが、祭神が神狐(白狐 瀬戸口弥七郎、赤狐 佐竹光明坊)というのは興味深い。

以下、由来板より抜粋。
「島津義弘が2度目の朝鮮出兵(慶長の役)で泗川に新塞(城)を構えこれを守っていたが、慶長3年10月1日、董一元を大将とする20万の明軍に攻められた。島津軍は鉄砲隊でこれを防いだが、このとき赤、白2匹の狐が火薬を抱いて明軍の中に突入し自爆したという(三国名勝図絵には一狐は敵の矢に当たって死んだとある)。このため明軍は大いに混乱し、島津軍も城門を開いて突出し遂に明軍を撃退した。義弘はこの狐の出現を稲荷神の加護によるものとして、その骨を陣僧頼雄法師修験 佐竹光明房に持ち帰らせ、同年12月18日、帖佐平山城の高尾に祭った。その後、高尾の社地が崩壊の恐れがあるということで、文政10年2月現在の地、義弘公治所(御屋地)跡に移された。」とある。

義弘は1606年に帖佐平松へ、翌1607年には加治木館へ居館を移すことになるが、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)、関ヶ原の戦い、その後の桜島謹慎を考えると、実際ここに住んだのは数年ということになるだろうか。
また後に娘の御屋地が移り住んだので、帖佐御屋地跡とも呼ばれている。


現在も石垣が残っているが、東南の一画は崩落のため近年積み直された。正面左側の一際大きい石は、長寿院盛淳が運ばせた御加勢石。



東側の大手門は、江戸時代初期に出水麓の仮屋門として移築された。



門柱礎石のホゾ穴が残っている。



惟新公邸址之碑は、没後300周年の1918年に建てられたもの。




車で15分ぐらい移動、加治木町に入り加治木島津屋形跡へ。

古城正門跡。



島津義弘が1607年に帖佐平松から移り住んだ居館。
空堀や城壁で城域を区画し、屋形造りの建物群で構成されていた。義弘が居した館は、現在の加治木高校の敷地にあった東の丸といわれている。

義弘が没すると、島津家久が新たに西の丸(中納言様御殿)を築造し移り住んだ。後の安政年間には、加治木島津氏9代 久長が居宅とした。

右裏門。



右裏門の正面に見えるのが義弘公薨去地碑。

 
 
 
国道10号線沿いの能仁寺跡は、加治木島津家歴代の墓地になっている。
 
1659年、般若寺跡に島津忠朗が建立した能仁寺だが、その後の1670年、現在の場所に移設された。
 
 
 
 

島津家久の3男 島津忠朗を初代当主とする加治木島津家は、島津義弘の遺命により、1万石を給せられ創立した分家。本宗家に次ぐ格式高い一門家で、後に薩摩藩7代藩主 島津重年、8代藩主 島津重豪を輩出している。
 
初代 島津忠朗と夫人の墓。
 
 

7/05/2019

御石山・願成寺跡・島津忠将供養塔・総禅寺跡


2019.5.3

姶良ICを下りて、岩剣城跡を右手に5分ぐらいの重富漁場近くにある御石山へ。
竜ヶ水で自害した島津歳久の遺体はここで清められたという。その首は肥前名護屋城の豊臣秀吉の元に届けられ、胴体は総禅寺に葬られた。

民家につながる細い路地にその石塔がある。




ここから車で10分、願成寺跡へ。前列に3基並ぶ右後ろが新納旅庵の墓。




元々は栗野にあった願成寺を、1595年に島津義弘がここに移し建立させた。

肥後八代の荘厳寺の住職だった新納旅庵は、島津義弘にその見識を認められ還俗。関ヶ原の戦いに従軍し、伏見城への入城交渉、その戦後処理で講和に尽くし本領安堵に尽力した功績はあまりにも大きい。

1602年に大坂の薩摩屋敷で亡くなった。



願成寺跡から程近い島津忠将供養碑。民家の間に、こんもりと盛り上がった山の上にある。



1561年、肝付兼続との廻城の戦いで、竹原山の陣が襲撃を受けその救援に向かう途中、肝付方の伏兵に合い討死した。
子の島津以久は後に垂水を拝領し、垂水島津家が興る。そして、関ヶ原の戦いで戦死した島津豊久の旧領 佐土原は、幕府直轄領となっていたが、1603年に徳川家康の意で島津以久に与えられた。



約8分車で移動し、実窓寺公園の道路を挟んだ向かいの実窓磧へ。
加治木で亡くなった島津義弘の遺骸を福昌寺に運ぶ日に家臣7人が殉死した場所。

当時は、この事跡を記念する松が植えられたという。




次は総禅寺跡へ。一般墓地が併設されていて、その左奥の荒廃した一体に古い墓石が乱雑に並んでいる。

島津宗家8代当主 島津久豊の3男で、豊州家初代当主 島津季久が菩提寺として総禅寺を建立。後に島津家久(忠恒)が本城としようとした建昌城(当初は瓜生野城)を築いた人物としても知られる。
島津季久の墓。



島津義弘の娘 御屋地を妻にした豊州家6代 島津朝久。文禄の役に従軍し巨済島で病死した。



御屋地の墓。



また島津歳久の墓所跡でもある。自刃したあと首は豊臣秀吉のもとへ渡り、胴体がここに埋葬された。後に首と一体になって心岳寺へ、現在は日置島津家の菩提寺の大乗寺跡に改葬されている。

7/01/2019

清泉寺跡・川田城跡 (2)・川田堂園供養塔群


2019.5.1

島津久章は、島津忠仍(久信)の第4子として生まれた。兄の島津久敏が垂水島津家5代当主を継ぎ、久章は垂水島津家から分家を興し新城島津家祖となる。
島津宗家16代当主 島津義久は男子に恵まれず、その娘 新城の血を引く忠仍は、本宗家を継いだ島津家久(忠恒)よりも血統的に優越していたため、家督争いが起こり毒殺されるまでに至る。またそれは子の久敏、久章にも及んでいった。

久章について、三国名勝図絵には「罪ありて川辺宝福寺に錮す。最後命して遠島に配す。」とあるが、犯した罪については言及されていない。清泉寺跡の説明板によると、島津宗家19代当主 島津光久の命を受け年頭の使者に立った際、紀州藩邸の玄関に駕籠を横付けするという不作法を犯したという。罪を問われ宝福寺に監禁され、清泉寺に移されていた久章に光久は、新納久親や市来家尚らを遣いとし、遠島の命を伝えた。
久章は命を奉じ本府に赴く道中、僕(しもべ) 三次が新納久親に斬りかかり逆に刺し殺されてしまう。罪が己に及ぶことを恐れ久章は抜刀し乱闘になったが、ついに壹岐幸伯に討ち取られた。


清泉寺跡には石垣が残っていて、先に見える金網の扉が入口になっている。



入ってすぐ左手に、清泉寺を開基した百済の僧 日羅上人の作と伝わる磨崖仏阿弥陀如来、そして応永年間に再興した覚卍和尚の墓などが見える。

日羅は坊津の一乗院、谷山の慈眼寺を開基したことでも知られるが、年代などはわかっていない。



途中、石段の右手に崩壊した囲垣があるが、ここで久章は弓射によって傷を負い自害した場所だと、三国名勝図絵とは異なる言い伝えもある。


石畳参道の突き当たりに島津大和守久章の墓、背後に家臣の墓碑。





入口に戻り川沿いをさらに行くと、妙有大姉磨崖仏や在家菩薩磨崖仏なども残存している。



2019.5.2

国道3号線から県道211号線に入って2~3分、左手に川田城跡が見えてくる。
空堀に区切られた5つの曲輪から成っていたようで、井戸跡や土塁が残っているらしい。

南九州城郭研究の縄張り図を参考にすると、看板の裏が虎口になっていて主郭に通じるようだ。



主郭と思われる曲輪に石垣が残存しているが、縄張り図を見る限りは後世のものと考えたほうがいい。



ここから竹藪の中に立ち入ってみた。しばらく進んでみたけど、同じような景観に方向感覚がなくなり、さらに前日の雨で滑りやすくこれ以上は断念。




舗装された道路に戻り、北側の堀切へ。



その先の深い空堀。




川田城跡から車で1、2分の川田堂園供養塔群へ移動。



川田氏の始祖 川田盛資が父や祖父の菩提を弔って建てたもので、鎌倉時代から室町時代の墓石が並ぶ。
ちなみに、川田氏11代 義秀から26代 佐徳までの室町時代から近世に至る川田氏累代墓石塔群は、川田川を挟んだところにある。


川田氏祖 盛資の墓。



その後ろに比志島祖 重賢(栄尊)の墓。