2/06/2023

海蔵院跡・南郷城跡


2022.12.25

帰省した翌日、6年ぶりの伊作城跡、多宝寺跡そして天徳寺跡などを再訪して海蔵院跡へ。



菊三郎(島津忠良)が母 常盤の勧めで、7歳から15歳まで8代目住職 頼増の教えを受けたという。近年整備された歴代住職の墓、逆修塔、供養碑などの墓石群があるが、頼増のものは見当たらない。




次は伊作城から車で15分ぐらいの距離にある南郷城跡。



永吉小学校裏山のさらに北側がそれにあたる。7つの曲輪のうち本丸高城、東の城、根子城の登城が可能。



1533年、南郷城主10代 桑波田孫六(栄景)は島津本宗家の当主争いで島津忠良・貴久に叛き、薩州家 島津実久に従った。高城の説明板によると、忠良は盲僧 寿長院了公に情報を探らせ、孫六が狩りに出た隙に、猟師に扮した忠良の家臣が孫六の帰城を装って城内に侵入、そして城を攻略したとある。
一方、守護職に復帰した島津勝久(忠兼)は、南郷城の奪還のため兵を送ったが退けられた。この攻防戦が貴久と忠将の初陣だといわれている。

本丸高城跡の土塁と眺望。





麓にある六地蔵塔。



南郷城の戦いで討ち取った桑波田河内守、桑波田式部少輔らの首実検を行い、忠良が供養塔を建立させたと伝わる。元々は別の場所にあり、笠石が失われてしまったという。