5/31/2023

島津貴久公休息の地・知覧城跡


2022.12.31 (1)

帰省最終日は小学校の頃、特攻平和会館に行った時以来の知覧。
途中、島津貴久公休息の地へ。



1527年、家督継承争いで島津勝久の悔返しにより清水城を脱した島津貴久は、園田実明の屋敷に匿われるなど、家臣の援助で田布施の亀ヶ城へ逃れた。その道中この饅頭石の凹みに溜まった水で鬢を結い直したという。




知覧武家屋敷に到着。佐多氏18代 久峰が御仮屋を現在の南九州市役所辺りに移し、亀甲城の麓の整備を行なったとされる。
現在は観光名所であり、ちょうど飯どきで食事処が混雑していたため、特攻平和会館周辺へ移動し昼食をとることにした。時間があったら帰りに亀甲城に登りたいと思っていたけど叶わず。食事を済ませ1人で知覧城跡へ向かう。




現地説明板によると、鎌倉時代初め当地(知覧院)は薩摩平氏一族の平忠益が郡司として、地頭に島津氏初代 忠久が就いていたとある。南北朝時代になると、郡司 平忠世は南朝方、地頭 島津久直が北朝方に属して各地を転戦し共に没落した。その忠世の遺領を佐多忠光が軍功により足利尊氏から与えられたという。

しかし1417年、伊集院頼久が島津宗家の家督継承をめぐり起こした争いで、知覧城は伊集院氏一族の今給黎久俊の手に落ちる。それから約3年後、久俊が島津氏8代 久豊に降伏すると、知覧は改めて佐多氏4代 親久に与えられた。

こうして代々知覧城を居城とした佐多氏だが、1591年に11代 久慶が家臣の海賊行為を豊臣秀吉に咎められ、隣村の川辺宮村に転封となっている。後に佐多氏は知覧に復帰を果たすが、その間に知覧城は火災で焼失してしまった。

小谷大手口。左手に西ノ栫、右手に蔵之城と本丸。



大手口から入り、左手にある東ノ栫と今城の間の空堀。



まず今城へ向かう。



今城虎口。



蔵之城へ。



虎口。



発掘調査で堀立柱の建物跡が発見されている。



南面に残る土塁。



本丸。




枡形虎口。



土塁。