6/29/2021

清水城跡 (1)・桂庵墓・内城跡・春日神社


2020.12.31

島津氏7代 島津元久が築城(氏久とする説もあり)以降、14代 島津勝久まで約160年間に及び三州守護の拠点とされた清水城。
清水中学校のプール裏側から主郭を目指すと、まず大興寺石垣群が現れる。



ここには島津氏11代 島津忠昌の菩提寺である興国寺が建てられていたが、子の12代 島津忠治が場所を移し、足利義昭(尊宥)供養のため大興寺を建立した。
1441年、義昭は謀叛の疑いをかけられ、島津方の日向国櫛間に逃れたところを、室町幕府6代将軍 足利義教がすでに隠居していた島津忠国に討伐を命じ、自刃に追い込ませた。
わざわざ父の菩提寺を移す必要があったか理解に苦しむが、自刃した櫛間ではしばしば妖怪があり、これが義昭のせいだとして祠を立てて祀ったというから、清水城でも怨念みたいなのがあったのかもしれない。

その石垣群から南曲輪群へは竹薮で進めず、このルートでの登城は断念。



一旦下山し、たんたどバス停からのルートでリトライ。しかしこちらの登城口は見つけられなかった。


1508年、島津忠昌は内乱に苦しみ清水城にて自刃した。忠昌に仕えた奈良原助八は、福昌寺門外の楠樹の下で遺書をしたため殉死。この地に六地蔵塔が建てられ、現在の石柱はその一部であると考えられている。



国道3号線から桂庵小路という細い道を入ると、桂庵公園の奥に桂庵墓がある。
桂庵玄樹は、島津忠昌の招きで薩摩に入り朱子学を普及させた。それは孫弟子の南浦文之らに引き継がれ、薩南学派を生み出し、幕末には薩摩藩士の思想を形成したとまで言われている。また、漢文の訓読法の開発や建仁寺の住持など、計り知れないほどの功績を残した。



南州墓地から磯街道までの南州門前通りには、今和泉島津家本邸跡や重富島津家本邸跡の屋敷跡から内城跡、島津氏27代 島津斉興が政策に掲げた洋式砲術の訓練所跡など、見所が多く並ぶ。
薩州家 島津実久に勝利した島津貴久は島津氏15代当主に就くと、内城を築き一宇治城から移った。遺構はなく、現在の大龍小学校正門横に文之和尚開山 大龍寺跡の碑があるのみ。



この大龍寺の寺号は貴久の大中公、義久の龍伯に由来。1602年に島津家久が鶴丸城を築城したことで廃城となり、跡地に南浦文之が開山の大龍寺が建立された。種子島久時が南浦文之に編纂させた鉄砲記は、鉄砲伝来を伝える貴重な資料となっている。


南州門前通りを抜けた磯街道にある春日神社。



942年、鹿児島郡司として長谷場直純が入薩した。後の長谷場永純が1053年に東福寺城を築いた頃、その船着場辺りに奈良の春日大社の分社として、春日神社を建立したといわれている。かつてこの辺りは海で、戦国期には軍港があり、大きな港町として栄えた。説明板には1609年の琉球出兵の際、樺山久高を総大将とし、副将を平山増宗が務めた薩摩水軍が出港した場所だと記されている。

薩藩水軍軍港跡の碑。