4/21/2022

新納院高城跡・高城川合戦場跡・根白坂古戦場跡


2022.1.29 (1)

朝7時にホテルを出て高城跡を目指す。

日向三高城でもあった新納院高城は、木崎原合戦で伊東氏に勝利した16代 島津義久が山田有信を城主として入れた。大友宗麟との高城川合戦、豊臣秀吉の九州平定(根白坂合戦)と、2度の大戦でも落城しなかった難攻不落の城として語り継がれている。

三方が断崖の地形をした舌状の台地に、唯一尾根づたいの西側には7つの空堀が張り巡らされていた。また標高は60mというがそれ以上の体感がある。
空堀の車道部は舗装され、欄干が設置されているが、当時の形状をよく残しているように思える。

第二~第四空堀跡。



第一空堀跡は登城口から本丸跡へ続く遊歩道となっている。



本丸跡にはメロディー時計台が建てられ、横の駐車場は二ノ丸跡だと考えられている。



急峻な地形を活かし、本丸を囲うように帯曲輪が張り巡らされている。





1572年の木崎原合戦に敗れ衰退していった伊東氏は、豊後の大友宗麟を頼り救援を要請した。これに応え1578年、日向へ進軍した大友軍は島津氏に恭順していた土持氏を滅ぼし、さらに南下。宗麟自身は海路で務志賀に留まり、総大将 田原紹忍が軍を率い高城を包囲し城攻めに取り掛かった。しかし救援で入城した島津家久の軍が加わり3000に膨れ上がった籠城戦は膠着状態となる。そのうちに島津義久率いる本隊が根白坂に着陣した。

佐伯宗天が陣を敷いた松山之陣(大友氏本陣跡)。石垣は当時築かれたものかわからないが、高城を攻めるだけの付城で合戦時の城の構えをよく残しているという。



宗麟陣営が遥か後方に置かれ、統率の取れない大友軍は田北鎮周の軍勢が谷瀬戸川(現在の切原川)を渡り、高城川(小丸川)を背に布陣していた島津軍前衛部隊を襲撃。

高城川合戦場跡の看板が設置された辺りで両軍が衝突し、北郷久盛や本田親治といった武将が討ち取られた。



高城川を渡河し、敗走する北郷・本田軍を深追いした大友軍に島津以久の伏兵が挟撃を仕掛け、高城からは山田有信、島津家久が出撃。釣り野伏に掛かった形の大友軍は大敗を喫した。さらに島津軍の追撃は高城から北方25kmにある耳川まで行われ、壊滅的な被害を与えた。


宗麟原供養塔。碑文には、山田有信が大友軍の犠牲者の霊を慰めるために建てたとある。



敗れた大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求め、九州平定に乗りだすことになる。


根白坂古戦場跡。



1587年、豊後・日向から南下してきた豊臣秀長が率いる豊臣軍。高城川合戦で島津義久が布陣した根白坂に宮部継潤が砦を築き、15000の兵を配備し島津軍との戦いに備えた所といわれている。
島津義久は山田有信が守る高城を救援すべく、この砦に20000の軍勢を引き連れて夜襲をしかけた。しかし島津歳久の養嗣子 島津忠隣が討死したのをはじめ、堅い守りを攻略できず多くの犠牲者を出してたため、退却せざるを得なかったという。

そして豊臣政権に降伏した義久は、抵抗を続ける有信を説得し開城させた。

4/10/2022

徳泉寺跡・鶴寿丸の墓・穆佐城


2022.1.28

鹿児島空港でレンタカーを借り、初日はえびの方面から佐土原へ向かう予定。
まず加久藤城周りの遺構を廻る。

徳泉寺跡。



この裏山に木崎原合戦で討死した樺山浄慶の屋敷跡、墓があるらしいがよくわからなかった。日向地誌によると、墓石は権大僧都秀存と彫られた自然石の墓だという。
また樺山浄慶の屋敷について、徳泉寺の裏山ではなく現在も土塁が残る所だとする方がいろいろ合点がいくと思う。



ここから程近い不動寺跡には島津義弘の長子で、8才で亡くなった鶴寿丸の墓がある。加久藤城内に埋葬されていたが、後に不動寺に移された。現在の墓石は、明治元年の廃仏令により神道型になったという。




伊東塚、伊集院忠真供養塔をまわったとこで日没も近くなり、佐土原城跡は翌日にしてホテルまでの道中にある穆佐城へ立ち寄った。


1336年、多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は、肝付兼重ら南朝方に対峙すべく畠山直顕を穆佐院に下向させた。これを制圧した直顕は、日向国守護に任ぜられ穆佐城を整備し居城とする。その勢力は大隅国にまで及び、以降も室町幕府の治めるところであった。南北朝合一後は、九州探題 今川了俊の解任を受け、1396年に国大将今川播磨守が穆佐城から撤退した(日向記)、という。
そして1399年、島津元久が宮崎平野への侵攻を始め、伊集院久氏を穆佐城に入れるが、1403年に島津久豊(後の島津氏8代)が入城し最前線に配置された。
その後1445年に伊東祐堯の攻略を許し、伊東義祐の時代には日向48城のなかでも日向三高城として数えられた。しかし木崎原の戦いに敗れ、伊東氏が豊後へ没落した後は再び島津氏の所領となった。

高木兼寛生誕地の北側登城口から立ち入る。



堀底を通路として使っていたほど大規模な堀切を境に、主郭部とは逆側の曲輪群は1つ1つの曲輪が広く、防御性が低いことから家臣の屋敷だったのではと考えられている。



平成30年の台風被害により、ここから主郭部へは行けないため、穆佐城跡ガイダンス施設に向かい、その裏手から再登城。



島津久豊が穆佐城に入った1403年、島津忠国が二の丸(坪之城)で誕生した。その記念として2本の杉が植えられたが明治7年に焼失。



主郭に通じる雛壇状曲輪群。



主郭は2段で構成されいて、発掘調査では掘立柱建物20棟や虎口などがあったことがわかっている。



主郭と空堀を隔てた北側の曲輪群。さらに堀で区画されていて防御性が高い。



倉岡城、宮崎城を望む。



現在も整備作業が続けられ、穆佐城跡ガイダンス施設ではイベントも企画しているようでした。歴史を後世に引き継ぐ宮崎市の活動には感服させられる。