8/29/2021

虎居城跡・宗功寺跡・興全寺墓地


2021.8.10 (1)

1248年に渋谷重保が相模国から下向し、地名の祁答院を名乗り、13 祁答院良重までが居城とした虎居城。
川内川の湾曲部を自然の堀とした地形から度々洪水が起こり、現在は推込分水路の整備が行われ、宮之城中学校側と完全に分断された。北端の川の瀬は八女の瀬と呼ばれ、祁答院氏9代 徳重の娘と7人の侍女が川内川で溺死したことに由来する。

虎居城跡遠景。



祁答院氏が13代で途絶えると、しばらく城主不在が続き、1580年に島津歳久が虎居城に入った。ほぼ九州全土を支配下においた島津氏だったが、1587年、豊臣秀吉の九州征伐に島津義久は降伏した。しかし歳久は抵抗を続け服従していない。秀吉の虎居城への入城拒否、帰途の籠に家臣が矢を射るなど秀吉の怒りを買った。極めつけは家臣が起こした梅北一揆で、その責任を取らされ自刃に追い込まれた。

領主としても慕われていた歳久の供養塔は各地に点在するが、その一つが城之口公民館前にある島津金吾歳久供養塔群。



歳久の次に虎居城主になったのは、1595年に都城から宮之城へ移封された北郷時久。
その後、島津宗家と伊集院氏との間で起こった庄内の乱の恩賞で、北郷氏は旧領への復帰を果たしている。
そして1600年、島津尚久の嫡男 島津忠長が虎居城に入り、代々宮之城島津家が城主を務め、明治維新後は華族に列し、国家に勲功ある者として男爵の爵位が与えられた。


虎居城跡の対岸にある宗功寺公園。
宮之城島津家2代 島津忠長が、京都妙心寺の末寺として創建した宗功寺。同家の菩提寺でもある。跡地は宮之城島津家墓所になっていて、忠長以降の石廟が建ち並ぶ。祠堂型の壮大な造りで、細かく彫刻されているのも特徴。
ちなみに初代 尚久の墓石も祠堂型で加世田の竹田神社にある。

再構された鳥居が1997年の地震で壊れ、現在は一部の柱脚と基礎のみが残る。



鳥居を入って左手の亀趺碑。その碑文は、5代 久竹が4代 久通までの功績を称えたものだという。



宝篋印塔の忠長の墓。



背後には殉死した家臣の尾辻次郎兵衛と塩田分太左衛門の墓石がある。



豊臣秀吉の九州征伐に降伏後、忠長は人質として京に上がった。従兄弟にあたる島津歳久の首が一条戻橋に晒された際、家臣にその首を奪い取らせ近くの浄福寺に埋葬した。
また関ヶ原の戦後処理では島津家存続に奔走し、戦さの武功以外でも功績を残している。

7代 島津久方の墓。
6代 久洪には跡継ぎがおらず、薩摩藩主3代 島津綱貴の子である久方が養子に入り7代目を継いだ。本家の血が入ったためか、宮之城島津家の家格は一所持に格上げされている。



3代 島津久元の墓。
忠長嫡男 忠倍が若くして亡くなり、新納家の養子に入っていた久元が戻って3代目に就いた。また妻の御下は島津義弘の娘で、前夫の伊集院忠真が殺害された後に久元と再婚、そして化粧料で佐志の地が与えられた。




御下の墓は佐志小学校近くの興全寺墓地にある。


8/01/2021

大圓寺


2021.4.30 - 7.29

前回あまりにも下調べが杜撰だったため、2日間にかけて再訪。

1673年、薩摩藩2代藩主 島津光久の嫡子 綱久が江戸で死去し葬儀が行われ、以降は江戸における島津家の菩提寺となった。島津家の改宗によって多くは改葬されたというが、今でも都城島津家関係の墓は残っている。詳細不明な薩州と彫られた墓石も数多い。

大圓寺本堂裏手奥に、玉垣で区画された都城島津家21代当主 島津久般の墓がある。
戒名は高勝院殿泰心了道大居士。
都城島津家は、本宗家4代島津忠宗の6男 資忠が北郷家を興し、以降17代 忠長(光久3男)のときに島津姓に復した。



周囲には薩州島津筑後家来と彫られた石碑が並ぶ。



薩摩藩8代藩主 島津重豪に仕えた久般は、1761年に拝謝使として共に江戸へ上り、江戸幕府10代将軍 徳川家治に謁見した。しかし天然痘に感染し、1762年に19歳の若さで死去、当時は伊皿子にあった大圓寺に葬られた。後を嗣いだ久倫はわずか3歳だったため、後見人として久般の室 自肯院の影響力は大きかったといわれる。



島津久般から遡り、北郷氏宗家10代 北郷時久の3男である北郷三久が興した平佐北郷家。
北郷氏宗家(後の都城島津家)の庶家で御一門、大身分に次ぐ家老格にあたる。その平佐を領した11代当主 北郷左門久敬の墓は、島津久般の墓へと通じる路のもっと本堂側。




北郷左門久敬の墓の右隣り、新納軍八実意の墓。新納忠元の2男 忠増を祖とする新納家庶流6代当主。
戊辰戦争、西南戦争に従軍。弾薬製造を管理する責任者だったようで、1877年に城山で政府軍に銃殺された。または西郷隆盛の後を追って自刃したとも。




本堂を正面にみて右手。道なりに下った右手一画に本城家の墓が数基並んでいる。



本城家は島津家久の2男 忠直(島津豊久弟)の孫 忠辰(忠頼の2男)が、1681年に2代藩主 島津光久の許しを受け興した永吉島津家庶流。家号は1595年に忠直が菱刈本城を知行されたことに由来する。
一番右の本城源四郎輝澄の墓。領主だったかは不明。



ちょうど住職が居られたので御朱印をいただいた。