6/30/2023

寶蔵寺・梛の木石碑・宗川寺


2023.5.23

目黒駅で東急目黒線に乗り換え、新横浜駅から相鉄線で瀬谷へ。駅南口のバスロータリーに掲示されている鎌倉古道 南コースのルート図。



寶蔵寺に後藤忠直の供養塔があるというので向かう。



相州家の血をひく島津忠貞(長徳軒)は小田原北条氏に仕えた人物として知られる。1561年、その5男 忠正が北条氏家臣 後藤忠光の養子に入り後藤島津氏が興った。北条氏滅亡後には忠正の子 忠直が徳川氏に仕え、瀬谷村の旗本となった。また忠正の長女 大橋局は、徳川秀忠の夫人に仕えたという。
忠直の供養塔は探してもそれっぽいのはなく、社務室で伺ったけどわからないとのことだった。
説明板には「当山本堂は当初、墓地に隣接していたが三度火災焼失した後、現在地に移り、今日の本堂は天保15年の建造である。」とあるので、供養塔はその墓地にあるのかもしれない。

御朱印。




梛の木石碑前という相鉄バス停の前に石碑がある。




江戸幕府の旗本だった島津久利は、瀬谷に薩摩から取り寄せた梛の木を植樹していた。後の1844年、江戸城で大火が起こった際には良材を伐採し、中原街道(県道45号線)を急送させ復興の要を果たしたという。
また久利は1667年に薩摩藩主2代 島津光久へ復姓を願い出、後藤島津を名乗るようになったが、忠貞から数えて7代 久武は再び後藤性に戻している。



石碑と同じ中原街道沿いにある宗川寺へ。



本堂右側が墓地になっていてその最上段手前の壁側に、丸に十字が施された古い墓石群(供養碑か)がある。




いろいろ調べても資料に乏しく、戒名から読み解くこともできないが、延享から寛政の元号は確認できる。7代 久武のものとも言われている墓碑の特定には至らなかった。

6/15/2023

禅河山東北寺 (2)


2023.3.12

2018年に訪れた際、本堂が改築中だったこともあり禅河山東北寺を再訪。完成した本堂は佐土原城跡の鶴松館ぽくも感じる。



御朱印を頂いた。



関ヶ原の戦いで戦死した島津豊久の佐土原は、垂水を領していた島津以久に与えられ薩摩藩の支藩となる。垂水島津家は嫡男の彰久へ、3男の忠興が佐土原藩2代藩主に就いてそれぞれが以久の後を継いだ。
佐土原藩10代藩主 島津忠寛は廃藩置県で東京へ移り、当寺を佐土原島津家の菩提寺として10代藩主以降の墓所となった。



10代 島津忠寛の墓。戊辰戦争で新政府軍の薩摩藩に従属、子の啓次郎は西南戦争の城山の戦いで戦死している。



忠寛を調べていくと、11代藩主とする見解が多くみられる。しかし高月院の佐土原藩島津家御廟所では忠寛を10代としている。また東北寺の墓誌に13代が久範と刻まれていて、それから遡ると忠寛はやはり10代藩主。この相違は5代藩主ともされる久寿が、幼少だった惟久の番代として一時的に家督を引き継いだため、藩主にカウントしない史料があるそうだ。墓所との整合性もありそれに従う。


11代 忠亮の墓。弟の啓次郎らと共にアメリカに留学。帰国後は東京赤坂区長の初代を務めた。



12代 忠麿の墓。



13代 久範と14代 忠韶の墓。
久範は薩摩藩主 島津忠義の子で忠麿の養子に入り家督を相続した。


6/03/2023

島津墓地(西福寺跡)


2022.12.31 (2)

持宝院跡と豊玉姫神社に立ち寄り、島津墓地(西福寺跡)へ。



西福寺は佐多氏3代 氏義が菩提寺として佐多に建立させた。後に知覧に移され、現在は島津墓地となって初代 佐多忠光から歴代当主が眠っている。現地には標柱や配置図はなく、さらにツタが墓石を覆い判別は極めて困難だった。説明板の系図に記された戒名を手掛かりとした。

初代 佐多忠光の墓。知覧を治めた佐多氏は、元々大隅国佐多を領する島津氏4代 忠宗3男の忠光が佐多氏を称したことにより興った。御一門に次ぐ一所持で分家との縁組も多く、幕末まで島津本家を支えた功績は大きい。



手前の道覚大禅定門と刻まれたのが佐多氏2代 忠直の墓。



新しい近代墓は佐多氏4代 親久とその子 師義らの墓。親久が佐多から本格的に居城を知覧城へ移したとされる。



石祠の墓は佐多氏15代 久利の室。霊照院殿元心高月大姉の戒名が確認できた。



知覧島津氏17代 久豪の墓。父の久逵は島津氏19代 光久5男で、15代 久利の養子に入り佐多氏16代に就いている。久逵以降に知覧の私領化、嫡男には島津性の使用が許された。



石段上に建てられた知覧島津氏18代 久峰の墓。島津氏22代 継豊3男。兄である重年が家督を相続し、御礼言上に同行した久峰は江戸城で徳川家重に拝謁している。



知覧君島津氏墓は知覧島津氏19代 久邦。



知覧島津氏23代 剛二郎の墓。