11/25/2018

日枝神社・源範頼の墓・安達盛長の墓・甘縄神明宮


2018.7.9

日枝神社は修禅寺の鬼門にあたり、弘法大師の建立といわれている。



鳥居をくぐり石段をあがると、右手に源範頼に纏わる信功院があったことを示す庚申塔。



境内は杉の大木がそびえ立ち神聖な趣き。




源範頼の墓は、先の修禅寺から500mぐらい坂道を上がると辿り着ける。



印象はシンプルで、状態も当時物とは思えない。



説明板に信功院のことも書かれていたので以下に抜粋する。

1193年の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。


源範頼の妻は、丹後内侍と安達盛長の娘というのが定説。
二条院に仕えていた丹後内侍は、惟宗忠康(もしくは惟宗広言)との間に島津忠久を授かる。そして関東に戻り安達盛長に嫁ぎ、もうけた娘が源範頼の妻となった。
しかし丹後内侍と惟宗広言は元サヤに戻ったのか、共に薩摩へ下り余生を過ごしていて矛盾が生じる。
そもそも丹後局と丹後内侍は同一人物ではないとする説もあるし、全てを鵜呑みにすると混乱は必至。


その安達藤九郎盛長の墓は、修善寺梅林に向かう途中にある。

往年は源頼朝に仕え鎌倉幕府創設に尽力。上野奉行職三河守護を歴任、源頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わった。



安達盛長の屋敷は甘縄にあって、現在の甘縄神明宮に安達盛長邸趾の碑が建っている。

吾妻鏡によると、1186年6月10日、病いの丹後内侍を見舞うため、源頼朝は朝光と胤頼の2人だけを引き連れ甘縄の家へ出かけたとある。夕刻だったのか、この日は甚だしい雨と雷鳴。密会とも取れるこの行動は、島津忠久が源頼朝の落胤説もゼロではないと感じてしまう。



2018.8.15

後日、鎌倉に行った時に甘縄神明宮を訪れてきた。
鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて長谷で下車し、鎌倉大仏方面に歩き、長谷寺とは逆方向に行くと甘縄神明宮がある。



碑は鳥居をくぐってすぐ右手。



社殿に続く階段下の北条時宗公産湯の井戸。



社殿とそれに連なる本殿。


 

11/24/2018

修禅寺・指月殿・源頼家の墓・家臣十三士の墓・源義経像


2018.7.9

日枝神社近くの修禅寺は、平安時代初期の807年に弘法大師の開基と伝わる。






本堂右手の寺務所で御朱印をいただき、拝観料300円を納め宝物殿へ。



宝物殿には古面と呼ばれるもの、源頼家と源範頼が所用した馬具などが展示されていて興味深かった。
この古面は戯曲 修禅寺物語の題材となったことでも知られ、源頼家に纏わる伝承がある。

鎌倉幕府第2代将軍職を追われ、伊豆修善寺に幽閉されていた源頼家は、北条氏の謀略により漆の入った風呂に入れられ全身が腫れ上がってしまった。その被れた顔を写し取り、苦しみを母 北条政子に訴えるため、面作り師 夜叉王に木製の面を彫らせたといわれている。


修禅寺から桂川を渡り筥湯へ。
ここで源頼家が入浴中、鎌倉幕府 北条時政の刺客に暗殺された場所だといわれている。



北条政子が源頼家の供養のために建立した指月殿は、修禅寺から160m程の距離。



修禅寺山門の仁王堂におさめられている金剛力士像は、釈迦如来坐像の両脇に安置されていたが、さらに前は修禅寺総門におさめられていたものらしい。

釈迦如来坐像。



指月殿に向かって左側に源頼家の墓。



供養塔の裏に3基並ぶ真ん中の五輪石塔がそれだという。両脇は若狭局と一幡との伝承がある。



さらに左手に広場には家臣十三士の墓。



以下説明板より引用。

北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年)7月18日、入浴中に暗殺された。
吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに暗殺されたことが記されている。
この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。
この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。


源頼家の墓から410m、この石段をひたすら上がって源義経像へ。



源義経は蒙古へ渡ってチンギス ハンになったという壮大すぎる説もある。

 

11/02/2018

真珠院・願成就院・北条政子産湯の井戸・成福寺・蛭ケ島公園


2018.7.8

伊豆へ配流となった源頼朝を監視する立場の伊東祐親が大番役で在京中だった間に、あろうことか娘の八重姫が源頼朝と結ばれ、すでに3歳の千鶴丸を授かっていた。
平家に知られることを恐れた伊東祐親は、千鶴丸の腰に石を巻きつけ川に沈めてしまい、源頼朝との仲を裂かれた八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げ命を絶ったという。

その八重姫入水の地近くに真珠院が建立された。現在は古川という狩野川の支流が流れている程度で、当時の状況を思い浮かべるのは難しい。

山門。


山門を入って右手が八重姫を祀る御堂(静堂)。



伊東氏といえば、織豊期に島津氏と日向の覇権を争った伊東義祐が思い浮かぶ。その興りは、工藤祐経の子 伊東祐時が日向地頭職を与えられ下向したことによるもので、元をたどれば伊東祐親も工藤氏のいち支族。


真珠院からは旧下田街道を北上し、成福寺までの守山中世史跡群を巡ることにしている。
次の願成就院は、1189年に北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して創建された寺院。



その後も2代執権 北条義時、3代の北条泰時にわたり繁栄をきわめ、南新御堂や北条御堂、北塔など次々に堂塔が建立された。この様子は大御堂のジオラマで規模を知ることができ、興味深かったのだが写真はNGとのこと。

大御堂には運慶作の阿弥陀如来坐蔵、毘沙門天像、不動明王像が安置される。



奥の宝物館を見学し、預けていた朱印帳を回収。全3種類。



北条時政の墓は風化が進んでいて、それを囲む新たに設けられた囲垣には違和感を覚えた。




次は程近い北条政子産湯の井戸へ。



平成10年の発掘調査で、北条氏邸内に井戸があったことがわかっていて、この産湯の井戸と伝わる旧跡は江戸時代以降のものだという。よって信憑性は低い。
ここは守山の麓にあった北条氏邸の東に位置し、狩野川の方に向かえば最初に見つけた北条氏邸跡に辿り着く。


産湯の井戸の向かいには堀越御所跡があるが、現在は何もない原っぱ。
堀越御所は北条氏の時代より下り、室町幕府8代足利義政の義兄 足利政知が関東を治めるために開いた政庁兼館だったところ。


さらに100mほど北上し、北条氏菩提寺の成福寺へ。

鎌倉幕府8代 北条時宗の第3子 北条正宗が1289年に北条氏発祥の当地に開基したといわれている。そして北条正宗の長子 北条宗仁がこれを修造して成福寺とした。以降、代々住職を受け継ぎ、現在は21代目になるそうだ。

北条正宗の墓(右)、北条時宗の墓(左)。



本堂北側の北条氏歴代墓所。




ここまで来ると韮山駅の方が近いのだが、自転車を返さないといけないので伊豆長岡駅へ戻る。そして電車で隣りの韮山駅へ移動、蛭ケ島公園に向かう。

本音としては韮山城跡に行きたいところだが、日没が近いのと今回の趣旨としては、源頼朝配流の地の方が妥当だろう。

源頼朝は1160年にここに流されて、14歳から約20年間の流人生活をおくった。



蛭ケ島公園一帯は、かつて狩野川の氾濫によってできた中州の一つで、湿田に囲まれた島状の地形だったというが、整備されている現在の様子からは想像し難い。

蛭ケ島の夫婦。



韮山駅に戻り、宿泊する修善寺へ移動。
南口1番バス乗り場から修善寺温泉行きに乗車。旅館にチェックインして夕食まで時間があるので翌日の下見に出掛けた。


竹林の小径。



門が閉ざされた修禅寺。



逸る気持ちを抑え、詳しくは翌日まわることにする。