5/23/2022

志和地城跡・森田陣跡・都之城跡・伊集院忠真供養塔


2022.1.29 (3)

九州平定後、伊集院忠棟は豊臣政権から都城8万石を知行され、島津氏家老でありながら一大名として扱われるようになった。当主である島津義久が10万石だから破格の待遇であり、島津氏宗家としてはとても容認できず、家臣からの妬みも積もり事件へと発展した。

1599年、後継者となっていた島津忠恒が、忠棟を島津家伏見屋敷に呼び出し自らの手で斬殺したのである。「当主である島津家をないがしろにした」との理由で、この件は忠恒の短慮によるものとされた。
しかし義久は庄内との通交を遮断させ、伊集院忠真への応対など、同意があったともとれる。
そして父を斬殺された国元の忠真は、島津家に対し反旗を翻し庄内の乱が勃発。一時謹慎していた忠恒だが、これに対処すべく伏見から戻り総大将として指揮をとった。

忠恒は東霧島神社に陣を構え、島津豊久を大将に新納忠元、入来院重時らが庄内12外城の山田城を攻め陥落させた。また攻め倦んでいた恒吉城(日輪城)が樺山久高の策により開城する。しかし加藤清正、伊東祐兵から支援を受けていた伊集院方の士気は維持されていたという。
この戦局に、忠恒は志和池城西側に森田御陣を布いた。台地の縁に沿って築いた大掛かりな陣営だったことから、志和池城が伊集院方の重要拠点だったことが窺い知れる。

現地の説明板に掲載されている森田御陣古地図。



忠恒が詰めた御陣辺りだと思われる場所。



陣跡の標柱が北郷陣だけ唯一建っている。



旧領奪還に意欲を示す北郷氏は、最前線で奮闘し敷根仲兵衛が志和池城の武将 園木治右衛門を討ち取っている。その鑓合せ場が志和池城南側麓にある石碑の辺りだという。




志和池城主郭の内之城は日露戦役紀念碑と忠霊塔が建つ広場、また一部は霊苑となっていて車で行くことができる。



内之城跡。



志和池城遠景。左側は西栫で、右側の志和池城との間にあった二の丸は削平されている。



志和池城が落ちると、忠真は徳川家康の調停を受け入れ降伏。本城としていた都之城を開城し、9ヶ月にも及んだ庄内の乱は終息した。

都之城跡。




この内乱で困窮した情勢から、直後の関ヶ原の戦いには十分な兵を送れなかったという。
そして1602年、西軍につき敗戦した関ヶ原の戦いの戦後処理で、忠恒が家康に謁見のため上洛することになり忠真は同行を命じられた。その道中の日向国野尻で鹿狩りを行なった際、押川治右衛門と淵脇平馬によって忠真は射殺されてしまう。忠真が島津氏家老 平田増宗の子 新四郎と馬を乗り換えていたため、新四郎も誤って撃たれている。治右衛門はその責任を負い自害した。
しかし一説によれば、かつて増宗が島津家の家督継承問題に介入したことによる遺恨で、忠恒が計画的に射殺させたともいわれている。

野尻にある伊集院忠真供養塔。



押川治右衛門(左)と平田新四郎(右)の墓。


5/01/2022

佐土原藩島津家御廟所・佐土原城跡・天昌寺跡


2022.1.29 (2)

高月院は1610年に伏見で亡くなった父 島津以久を供養するため、佐土原藩2代 忠興が1612年に建立した佐土原島津家菩提寺。院号は戒名の高月院殿前典厩照誉宗恕居士に由来する。

山門。



本堂左手には、戊辰戦争に関する豊烈曜後之碑などのほか、佐土原城の礎石もある。



ここから本堂裏手に回り込み佐土原藩島津家御廟所へ。初代 以久から10代 忠寛まで(5代 惟久と6代 忠雅は大光寺)の歴代藩主の墓のほか、室や殉死者の墓が並ぶ。



初代 以久の墓。



2代 忠興の墓。




佐土原城跡へ。
伊東一族の田嶋休祐が築城、かつては鶴松山田嶋之城と呼ばれていた佐土原城。1427年、伊東祐賀が入城し、佐土原の姓を名乗ったことから改称された。後に伊東義祐が都於郡城から移ると、城郭を整備し規模が拡大していったという。しかし木崎原の戦いに敗れ島津氏の領地となり、1579年に島津家久が串木野城から移り入城した。家久が急逝すると子の豊久へ引き継がれたが、関ヶ原の戦いで戦死したため幕府領として召し抱えられた。
その後の戦後処理で佐土原3万石を島津以久が拝領し、三男 忠興を連れ垂水から移り初代佐土原藩主となった。しかし以久が亡くなると、垂水島津家の久信と相続争いが起こる。忠興は垂水と不和のため1612年までかけて城郭を補修、天守を建立し権威を示した。

二の丸跡の鶴松館は、上御門・大広間・書院・数寄屋造りなどの御殿が復元され、現在は歴史資料館となっている。



鶴松館裏の大手道から立ち入った。
縄張り図から読み取ると、尾根上に道が延びている様子がわかる登城路。



尾根を進む敵を防ぐため設けられた堀切。



本丸枡形虎口に石積みされた一画が残る。



本丸跡。



発掘調査から古絵図の位置に見つかった天守台跡。天正年中佐土原城図に三層が描かれ、江戸後期に編纂された旧事集書には弐重天守と書かれているという。



中の道からの登城路を通って下城。




天昌寺跡の島津家久と豊久の墓へ。
途中、行先表示には前島津の墓と記されている。家久親子と以久以降の後島津(佐土原島津家)に区別しているようだ。



左から家久、豊久、家久室、家久母の墓。



さらに関ヶ原合戦 戦死者の墓が並ぶ。