7/01/2024

加治木城跡 (2)・勝岡城跡 (2)・八房神社


2024.6.7 (1)

鹿児島空港からレンタカーを借りて加治木城跡へ直行。前回あまり把握できなかったため再訪。

黒川崎の戦いで島津貴久に降伏した肝付兼演が没すると、嫡男の兼盛が肝付加治木氏の家督を継いだ。1554年、貴久に敵対する蒲生範清が祁答院良重らと加治木城を攻める。貴久は弟の忠将をはじめ、伊集院忠朗や樺山善久らに加治木城の救援に向かわすが戦局は良くならない。そこで良重の岩剣城を包囲する策を取ると、逆に蒲生・祁答院方が救援に動き戦局は一変し、岩剣城の戦いへと転化した。この大隅合戦といわれる一連の戦さは、蒲生城が陥落する1557年まで続くことになる。

加治木城本丸跡へはAs舗装され車でも行けそうだが、道も細く私有地ぽいので控えた。

本丸、二ノ丸間の堀切。



シラスが剥き出した断崖の二ノ丸塁壁。



以前西ノ丸は養豚場だったようで、遺構の現存の望みは薄いように思える。案内板まで戻り、高城や松尾城の捜索を試みたがよくわからなかった。


鹿児島市内へ向かう途中、帖佐駅前の姶良市観光案内所で、岩剣城と蒲生城の赤色立体図クリアファイルを購入。縄張りを知る資料として貴重。




前回の探索が不十分でなんとなく勝岡城跡を再訪。ひまわり園横の登城口。



急斜面の城道を上がる。



前回ショートカットした斜面をスルーして城道通りに迂回すると曲輪があった。位置的に本丸、二ノ丸に並ぶ配置で、本丸にかけて段々状に高くなっていく。
二ノ丸から本丸を右手に空堀を進む。



腰曲輪規模の削平地に行き着く。



さらに先には搦手口らしきものがあった。しかし登城口としては無理があり、竪堀の遺構かと思う。

登城口に戻り、ひまわり園前から車で舗装道路を進み犬迫小学校までぐるっと廻ってみたが、途中の民間墓以外はそれっぽいのは確認できない。しかし地形的にもこの一帯が勝岡城の全貌とも思える。

勝岡城前の犬迫川は天然の外堀の役目をなしていた。




勝岡城跡麓に鎮座する八房神社は、1530年に八幡太郎義家を祭神に比志島義祐によって建立された。比志島氏は重賢(栄尊)から始まり、数代さかのぼれば源義家の名に辿り着く。

明治になって、近くにあったという霧島神社を合祀。入母屋造りの社殿。



書き置きの御朱印を頂いた。



鹿児島県地誌・同備考(抄)によれば、大永の頃(1521〜1528)、川田氏10代 義元と11代 義秀が島津勝久から犬迫村を拝領したことが書かれている。永禄3年には入来院重朝が島津貴久から与えられ所領とした。ちなみに義秀は、島津氏16代 義久に仕えた軍師 川田義朗の義父にあたる。

5/26/2024

藤原昌久華翁浄栄居士霊墓碑・清水城跡 (4)


2023.12.31 (3)

いつか行こうと思っていた川上昌久の墓碑へ。国道10号線から脇道に入り、鳥越坂の急斜面1車線を行ったり来たりしても見つからず。ちょうど洗車している方がいたのでお伺いしたところ、庭先から見える白い標識を教えて頂いた。どうみても民家の敷地内だったので、在宅されていた方に声を掛けて入らせてもらった。

この墓碑は1712年に子孫の久東が建てたものだという。




悔返しにより守護職に復帰した島津勝久は、仕えていた重臣を遠ざけ、政務を怠るようになったという。家老の川上氏10代 昌久は、末弘網秀の登用に原因があるとして勝久を諌めたが受け入れず、1534年に谷山の皇徳寺で網秀を誅殺へと及んだ。
この行動は勝久の怒りを買い、大興寺に呼び出された昌久は道理にかなわず自刃。
さらに勝久に居城であった川上城を攻められたが、籠城した昌久室と家臣たちが撃退、旧領は島津忠良によって安堵された。



大興寺があった清水城跡へ。



大興寺口から山神権現を通って、大空堀に入る手前左側の西添曲輪。形状から腰曲輪が連なっていたと思われる。



今回主郭部の草刈りが行われていて、本丸下の段状になった構造が確認できた。


5/20/2024

上山城跡・夏蔭城跡・城山公園


2023.12.31 (2)

現在の城山公園一帯は、島津氏の下向以前から豪族 上山氏の城があった。しかし正平年間に桜島へと居を移し廃城となる。
1602年頃、島津氏18代 家久が麓に鶴丸城の築城を始め、背後の上山城を後詰めの城として整備、島津歳久の孫にあたる常久が城番に命じられた。しかし1614年に常久が没すると、以降は城番が置かれることはなかったという。また1877年の西南戦争では、西郷隆盛が籠城したことで知られている。



南泉院跡(照国神社)横の大手跡から現在は城山公園の上山城跡を目指す。江戸時代の排水溝。



城山公園駐車場横の売店脇階段を上がると、かつて正午の時報がわりに空砲を撃っていたという二之丸跡(ドン広場)。名は空砲の轟音に由来。



周囲に残る土塁。



さらに一段高くなっている所に、西南戦争時の薩軍本営跡の碑が建つ。



新照院口を抜けしばらく進むと、夏蔭城跡に城趾碑がある。



上山城の北側にあたるここは、兵士を配備し裏手の守りを固める役割があった。当時は楠木が生い茂り高涼地で夏蔭といわれ、いつしか夏蔭城と呼ばれるようになったという。遺構なのか後世のものか判断つかないが、山の斜面を利用した腰曲輪が段状に連なる構造となっている。



草牟田方面の眺め。



城山展望台に戻る。




遊歩道を下って探勝園方向へ。途中にある近衛の水とよばれる藩政時代の水道遺跡。



説明板には、1723年に島津氏22代 継豊が水源の冷水町から城下へ水道を引かせ、さらに島津氏27代 斉興の時代、約1.2kmに及ぶ石管で配水され要所に貯水槽を設けたとある。名は関白の近衛信輔がすずりの水に使用したことに由来するが、年代を考えると水道整備される前で辻褄が合わない。後付けされたものかと推測できる。

また近くには現在でもシラス層と泥岩層の境から水が湧き出ているところがある。


5/18/2024

碇山城跡・隈之城跡(二福城跡)


2023.12.31 (1)

1339年頃、島津氏5代 貞久が碇山城を築き木牟礼城から守護所を移したとされる。
貞久は大隅国守護職を氏久(奥州家)、薩摩国守護職を師久(総州家)に相続しそれぞれ統治させた。

総州家が居城とした碇山城の現在は、採石場として西側が跡形もなく削平され、移された日枝神社横に城跡碑が建っている。



残った東側の主郭部。




奥州家と総州家は次第に敵対するようになり、鶴田合戦や相続争いに端を発した伊集院頼久との争いなど抗争が続いた。
1416年、総州家 島津久世と奥州家 島津久豊は和睦を計ったが決裂。河邊を明け渡すよう求めた久豊に対して、久世はこれを拒否し自害して果てた。

一方1419年、総州家 島津忠朝の永利城が入来院重長と市来家親に攻められる。久豊の援軍も加わり忠朝は耐え切れず降伏すると、隈之城に退き永利城は重長に与えられた。さらに2年後、隈之城を忠国が攻め落とすと島津直轄領とし、その後は薩州島津氏押領、入来院氏領、再び島津直轄領と変還し地頭に島津家久が就いている。




平佐城跡の南に位置する小高い住宅地の一画、子安観音像横に石標が建つ隈之城(二福城)は鎌倉時代初期、薩摩郡司 薩摩太郎忠友が居城していたといわれる。

1422年、碇山城から叔父の守久が在城する木牟礼城まで退いていた久世の嫡男で総州家5代 久林だったが、久豊が忠国と伊作勝久に木牟礼城を攻めさせ守久と久林は耐えきれず逃亡、薩摩国は奥州家によって平定された。

そして日向国真幸院に逃れていた久林は、忠国から攻められると自害に追い込まれ、総州家は1430年に5代で途絶えた。

4/07/2024

仏智山津友寺跡・蒲生城跡 (3)


2023.12.30 (4)

島津氏12代 忠治の墓所跡でもある仏智山津友寺跡。参道には仁王像が残されている。



吉田氏14代 位清は島津氏に叛き吉田松尾城に立てこもると、島津氏12代 忠治はこれを攻めた。陣中にあった忠治が1515年に亡くなり、弟の忠隆が引き継ぎ攻めたて位清は降伏、薩州家を頼って出水へ向かう途中だったが自害したという。

忠治が葬られた了心寺は津友寺と改められ昔提寺となった。1975年、福昌寺跡墓地に改装され、現在は墓所跡として保存されている。





まだ日没まで時間があったので、蒲生城跡の奥に築かれた荒平新城曲輪群を目指す。駐車場の説明看板が新調され、本丸跡の標柱が新たに設けられていた。



本丸曲輪群、馬場跡を抜けた土橋の先が倉ノ城跡になる。



右にまわり込む道を進む。倉ノ城跡を右側にみた切岸。



土矢倉城跡へ通じる枡形虎口。



切り通しを抜ける。



右側に土矢倉城跡の虎口がある。



1554年に岩剣城を落とした島津氏15代 貴久は、支城の北村城を1556年に陥落させると蒲生城攻めにとりかかる。吉田衆が土矢倉に忍び入り番衆4人を打って番屋に火を掛けたという。

曲輪にある山神祠と土塁。



蒲生城攻めに従軍した赤塚源太左衛門は、島津氏に仕え各地を転戦、1595年に蒲生城の守りを任された。また関ヶ原合戦前、人質の宰相殿に共したほど信頼が厚く、敗戦後に適中突破を成した島津義弘らと合流して薩摩に戻った。そして徳川方の進行に備えて荒平新城の増築を命じられ、その新城御番を1610年まで務めている。


土矢倉城跡から下る城道が延びる。これに面する曲輪群が荒平新城といわれるが、藪化で遺構らしいものは判断できなかった。

荒平新城からみた土矢倉城跡へ通じる虎口。


3/31/2024

加治木城跡・黒川岬展望公園


2023.12.30 (3)

網掛川と日木山川に挟まれる丘陵に築かれた加治木城は、平安時代に大蔵氏が築城したといわれている。



搦手坂から道なりに進み御馬城跡の標柱が目に付く。




途中の縄張り図によると、御馬城の西側に二ノ丸、本丸、西ノ丸と横並びの連郭式中世山城だったことがわかる。現在は網掛川にむけて水田が広がり、二ノ丸跡と御馬城跡の間の農道が丘陵に沿うかたちで延び、城郭の裏側に回り込むと西ノ丸跡と本丸跡裏にそれぞれ通じる道があった。

開けた平坦地に出る。奥の白い小屋は二ノ丸跡と御馬城跡間の農道。



さらに一段あがった曲輪から連郭の空堀に出られる。ちょうど本丸跡(右側)辺りに出た。



本丸跡と二ノ丸跡の堀切から二ノ丸跡へあがる。




肝付氏12代 兼忠3男 兼光は本家を離れ肝付氏庶流となり、大隅国大崎城を拠点とした。その子の兼固は島津氏11代 忠昌に仕え、溝辺を与えられ移った。
1526年、相州家 島津貴久が島津氏14代 忠兼の養嗣子となり守護職が約束されると、帖佐平山城の辺川忠直は薩州家 島津実久に臣従した。そのため忠兼は島津忠良に命じてこれを平定させる。そして功績のあった肝付兼演は帖佐辺川、加治木の一部を与えられ、帖佐地頭に島津昌久が就いた。
しかし昌久がすぐさま謀叛を起こし、これに加治木城主 伊地知重貞が同調する。両者とも討ち取られ忠良によって鎮圧されたが、この間に実久が出水から軍勢を率いて南下、一宇治城などを落とし貴久が在城する清水城に迫ろうとしていた。そして実久の引導のもと、忠兼が勝久へ改名し悔い返しにより、奥州家と相州家、薩州家による相続争いは複雑化することになる。

兼演は1534年から加治木城に移り、後に加治木肝付氏初代として位置付けされる。奥州家の衰退につれ貴久に敵対するようになり、1549年に伊集院忠朗を大将に据え樺山善久、北郷忠相らが兼演を攻めた。黒川崎に陣を構えると、肝付方は日木山川を挟んで対峙し、現在の黒川岬展望公園辺りで行われた合戦は数か月に及んだ。



鉄砲の使用が記録(貴久公御請)された初見だという黒川岬合戦は、兼演が降伏し所領は安堵され加治木肝付氏2代 兼盛も貴久に従った。

黒川岬展望公園に黒川岬碑があり、島津家久が詠んだ和歌「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」が彫られている。錦江湾の名の由来だという。



1554年、蒲生範清は祁答院氏ら渋谷一族と、兼盛が守る加治木城を攻めた。貴久は救援策として岩剣城を攻めて牽制する策を取った。範清らは加治木城の囲いを解いて岩剣城の援護へと動く。そして大隅合戦へと展開していくことになる。

3/24/2024

天御中主神社・国分清水城・楞厳寺跡


2023.12.30 (2)

天御中主神社(北辰大明神)に立ち寄って国分清水城へ。




島津忠久が島津荘下司職に補任されると、本田親恒が代官として下向した。その子 貞親は大隅国守護代を務め、国分清水城を居城に代々島津氏に仕えることになる。
時は下り、本田氏14代 薫親は近衛稙家に通じ、従五位下の官位を得て大隅国守護職をも脅かす存在になっていた。そして1548年、大隅正八幡宮の焼き討ち、家臣の斬殺などにより本田一族で内紛が起こる。これに介入した島津忠良によって国分清水城が攻め落とされると、薫親と子の親兼は北郷氏を頼り庄内へ出奔した。
さらに対抗勢力の鎮圧にあたるため、島津氏15代となった貴久は約1年間在城し対処している。またフランシスコ・ザビエルと会見を行なった場所ともいわれ、キリスト教布教を許可した。同じような記録が一宇治城にもあるが、時期や大隅国の情勢を踏まえると、信憑性が低いわけでもない。その後、国分清水城には貴久の弟 忠将が城主として入り、以久そして彰久へと引き継がれた。

搦手口から大手口に向かって進む。



すぐに右へカーブする切通しが設けられている。



左脇には堀切。



林道の右側は連郭かと思われ虎口らしきものもあるが、急斜面で登れる様子もない。



城門跡か、説明板の先が大手口に繋がる主郭部。



本丸跡虎口。




1561年の廻城の戦いで戦死した島津忠将は、麓にあった楞厳寺に葬られた。



同夫人、朝鮮出兵で病没した垂水島津家3代 彰久の墓も並んでいたようだが、太平洋戦争の空襲で破壊されたという。後に垂水島津家墓所の16代 貴暢の墓と合葬された。現在は墓跡の標柱が建っている。