11/02/2018

真珠院・願成就院・北条政子産湯の井戸・成福寺・蛭ケ島公園


2018.7.8

伊豆へ配流となった源頼朝を監視する立場の伊東祐親が大番役で在京中だった間に、あろうことか娘の八重姫が源頼朝と結ばれ、すでに3歳の千鶴丸を授かっていた。
平家に知られることを恐れた伊東祐親は、千鶴丸の腰に石を巻きつけ川に沈めてしまい、源頼朝との仲を裂かれた八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げ命を絶ったという。

その八重姫入水の地近くに真珠院が建立された。現在は古川という狩野川の支流が流れている程度で、当時の状況を思い浮かべるのは難しい。

山門。


山門を入って右手が八重姫を祀る御堂(静堂)。



伊東氏といえば、織豊期に島津氏と日向の覇権を争った伊東義祐が思い浮かぶ。その興りは、工藤祐経の子 伊東祐時が日向地頭職を与えられ下向したことによるもので、元をたどれば伊東祐親も工藤氏のいち支族。


真珠院からは旧下田街道を北上し、成福寺までの守山中世史跡群を巡ることにしている。
次の願成就院は、1189年に北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して創建された寺院。



その後も2代執権 北条義時、3代の北条泰時にわたり繁栄をきわめ、南新御堂や北条御堂、北塔など次々に堂塔が建立された。この様子は大御堂のジオラマで規模を知ることができ、興味深かったのだが写真はNGとのこと。

大御堂には運慶作の阿弥陀如来坐蔵、毘沙門天像、不動明王像が安置される。



奥の宝物館を見学し、預けていた朱印帳を回収。全3種類。



北条時政の墓は風化が進んでいて、それを囲む新たに設けられた囲垣には違和感を覚えた。




次は程近い北条政子産湯の井戸へ。



平成10年の発掘調査で、北条氏邸内に井戸があったことがわかっていて、この産湯の井戸と伝わる旧跡は江戸時代以降のものだという。よって信憑性は低い。
ここは守山の麓にあった北条氏邸の東に位置し、狩野川の方に向かえば最初に見つけた北条氏邸跡に辿り着く。


産湯の井戸の向かいには堀越御所跡があるが、現在は何もない原っぱ。
堀越御所は北条氏の時代より下り、室町幕府8代足利義政の義兄 足利政知が関東を治めるために開いた政庁兼館だったところ。


さらに100mほど北上し、北条氏菩提寺の成福寺へ。

鎌倉幕府8代 北条時宗の第3子 北条正宗が1289年に北条氏発祥の当地に開基したといわれている。そして北条正宗の長子 北条宗仁がこれを修造して成福寺とした。以降、代々住職を受け継ぎ、現在は21代目になるそうだ。

北条正宗の墓(右)、北条時宗の墓(左)。



本堂北側の北条氏歴代墓所。




ここまで来ると韮山駅の方が近いのだが、自転車を返さないといけないので伊豆長岡駅へ戻る。そして電車で隣りの韮山駅へ移動、蛭ケ島公園に向かう。

本音としては韮山城跡に行きたいところだが、日没が近いのと今回の趣旨としては、源頼朝配流の地の方が妥当だろう。

源頼朝は1160年にここに流されて、14歳から約20年間の流人生活をおくった。



蛭ケ島公園一帯は、かつて狩野川の氾濫によってできた中州の一つで、湿田に囲まれた島状の地形だったというが、整備されている現在の様子からは想像し難い。

蛭ケ島の夫婦。



韮山駅に戻り、宿泊する修善寺へ移動。
南口1番バス乗り場から修善寺温泉行きに乗車。旅館にチェックインして夕食まで時間があるので翌日の下見に出掛けた。


竹林の小径。



門が閉ざされた修禅寺。



逸る気持ちを抑え、詳しくは翌日まわることにする。

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