3/11/2019

石垣山一夜城歴史公園


2019.2.19

山中城跡公園からのバスが1時間に1本だったので、2時間ぐらい滞在して三島駅に戻る。新幹線で東京方面に上り小田原駅で下車。東口5番乗り場からバスで入生田まで約20分。太閤橋から石垣山一夜城方面を望む。



太閤橋を渡り、ひたすら坂道を歩くと、途中に早川石丁場群の遺跡がある。石垣用の石を切り出した石丁場だが、これは江戸城普請時のものらしい。



入生田から歩くこと約40分、ようやく史跡石垣山一夜城歴史公園に着いた。



石垣山城は、小田原城から南西におよそ4kmに位置する総石垣の城で、豊臣秀吉が本営とするために80日間で築城させた陣城。完成すると周辺の樹木を切り払い、小田原北条方は一夜のうちに出現した城に驚き戦意喪失したとか。

しかし、まず目に入るのは見るも無残な南曲輪の石垣。荒割りした石を用いた野面積みだけに、その様は時代に取り残され忘れ去られた廃城という印象を受けた。素人目にはわからないが、城割りといって城の役割を終えた際、一部を壊す作法らしく、その痕跡も確認されているらしい。



旧城道東登口から本丸を目指す。



南曲輪と東曲輪の道を行くと、かつては外門があり西曲輪と本丸への分岐にさしかかる。



天守台跡からは、本丸跡その先の小田原の町まで視界が抜ける。



本丸跡に掲示されている小田原城包囲布陣図。島津久保は石垣山城の北側に陣取っていたことがわかる。



物見台から小田原城を一望することができるが、現在の天守閣は江戸時代のものを模したもので、当時はさらに北西に位置した山城だったという。



二の丸から北東に位置する井戸曲輪は、当時の石垣と石塁が状態良く残る貴重な遺構。石塁によって谷を遮断し、湧水を貯水する構造だという。



帰りは早川駅方向へ下りることにした。途中、海蔵寺にある堀秀政の墓に立ち寄る。



織田信長が亡き後、豊臣秀吉を主君とし九州平定にも従軍した武将。山中城落城後の小田原城包囲ではこの海蔵寺を本陣としていたが、病没しここに埋葬された。
4基並ぶ宝篋印塔のうち、一番左が堀秀政のもので、他は殉死した家臣のものだといわれている。

 

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