6/12/2019

大汝牟遅神社・天徳寺跡・亀ヶ城跡


2019.5.1

今日は伊作家10代当主 島津忠良(日新斉)に関わる日置、加世田方面を中心に廻る。

最初に訪れたのは、赤色が鮮やかな現代的造りの大汝牟遅神社。



創建年代はわかっておらず、大和朝廷の頃だともいわれるが、島津忠久が八幡大神を祀ったという記録が残る1186年を設立年としている。
伊作島津家との関係は深く、島津忠良から島津光久の時代に至るまで、神殿や拝殿の建替え造営が行われた。

社務室横の説明板よると、「島津義久・義弘は初宮、初詣その他の年祝時に、伊作島津の宗廟・総鎮守の大汝牟遅神社に参詣したといわれている。また義久は義弘の八代移封につき、川田義朗を派遣し神慮を伺い弓箭のクジ取りを行なった。」と、伊作島津家と大汝牟遅神社との関係が記されている。

また毎年行われる流鏑馬神事は、島津忠良が加世田攻めに勝利し奉納されるようになったと伝わる。

書き置きの御朱印を頂いた。




ここから車で1、2分と近い天徳寺跡。1213年に東福寺として創建され、1527年天徳寺へ改した。伊作島津家3代 島津親忠は、天徳寺を菩提寺としたためここに眠る。



石段を上がった先の玉垣内には5基の五輪塔が並ぶ。





左から島津久氏(島津親忠の弟)、島津忠氏(島津貞久の弟で和泉家初代当主)、島津親忠、妙栄(島津貞久夫人)、島津貞久(島津氏5代当主)。
伊作島津家歴代当主の墓は、天徳寺の本山であった多宝寺跡にあるが、この島津親忠と島津忠良は除く。




車で12~13分、南さつま市に入り亀ヶ城神社へ。




島津宗家9代島津忠国の子 友久は庶子のため宗家を継がず、分家として相州家を興し亀ヶ城に居住した。そして時代は相州家2代 島津運久へと引き継がれる。
一方、友久の弟 島津久逸は、伊作家7代当主が幼くして亡くなったため、養子に入り8代当主を継承した。後に嫡子の島津善久に9代当主を譲り隠居した久逸であったが、善久が馬丁に殺される事件が起こり、幼い菊三郎(後の島津忠良)の後見人となって支えた。

しかし、加世田城の救援で出陣した久逸が討死してしまい、この窮地に伊作家存続を一身に担うことになったのが菊三郎の母 常盤。
常盤は運久から幾度となくアプローチを受けていたこともあり、菊三郎に相州家の家督を継がせる条件でこれを承諾することにした。この運久には正室がいたが、船上で子女共々謀殺させたともいわれている。さらに相州家を継ぐはずだった子の島津忠貞は出家させられ、子孫は後に後藤島津家と名乗って代々小田原北条氏に仕えた。

菊三郎は1506年に元服、伊作家10代当主に、そして1512年には相州家の3代当主も相続した。島津忠良は、亀ヶ城に居を移し1514年に島津貴久が誕生。城跡には亀ヶ城神社が建てられ現在に至っている。



大中公誕生之地の碑。



拝殿前には、貴久誕生にまつわる両亀石が現存。

 

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