7/18/2019

稲荷神社・加治木島津屋形跡・能仁寺跡


2019.5.3

総禅寺跡から程近い島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)。

1595年、朝鮮出兵(文禄の役)から帰国した島津義弘は、栗野から帖佐に移りここに館を築いた。



現在、稲荷神社が鎮座しているが、祭神が神狐(白狐 瀬戸口弥七郎、赤狐 佐竹光明坊)というのは興味深い。

以下、由来板より抜粋。
「島津義弘が2度目の朝鮮出兵(慶長の役)で泗川に新塞(城)を構えこれを守っていたが、慶長3年10月1日、董一元を大将とする20万の明軍に攻められた。島津軍は鉄砲隊でこれを防いだが、このとき赤、白2匹の狐が火薬を抱いて明軍の中に突入し自爆したという(三国名勝図絵には一狐は敵の矢に当たって死んだとある)。このため明軍は大いに混乱し、島津軍も城門を開いて突出し遂に明軍を撃退した。義弘はこの狐の出現を稲荷神の加護によるものとして、その骨を陣僧頼雄法師修験 佐竹光明房に持ち帰らせ、同年12月18日、帖佐平山城の高尾に祭った。その後、高尾の社地が崩壊の恐れがあるということで、文政10年2月現在の地、義弘公治所(御屋地)跡に移された。」とある。

義弘は1606年に帖佐平松へ、翌1607年には加治木館へ居館を移すことになるが、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)、関ヶ原の戦い、その後の桜島謹慎を考えると、実際ここに住んだのは数年ということになるだろうか。
また後に娘の御屋地が移り住んだので、帖佐御屋地跡とも呼ばれている。


現在も石垣が残っているが、東南の一画は崩落のため近年積み直された。正面左側の一際大きい石は、長寿院盛淳が運ばせた御加勢石。



東側の大手門は、江戸時代初期に出水麓の仮屋門として移築された。



門柱礎石のホゾ穴が残っている。



惟新公邸址之碑は、没後300周年の1918年に建てられたもの。




車で15分ぐらい移動、加治木町に入り加治木島津屋形跡へ。

古城正門跡。



島津義弘が1607年に帖佐平松から移り住んだ居館。
空堀や城壁で城域を区画し、屋形造りの建物群で構成されていた。義弘が居した館は、現在の加治木高校の敷地にあった東の丸といわれている。

義弘が没すると、島津家久が新たに西の丸(中納言様御殿)を築造し移り住んだ。後の安政年間には、加治木島津氏9代 久長が居宅とした。

右裏門。



右裏門の正面に見えるのが義弘公薨去地碑。

 
 
 
国道10号線沿いの能仁寺跡は、加治木島津家歴代の墓地になっている。
 
1659年、般若寺跡に島津忠朗が建立した能仁寺だが、その後の1670年、現在の場所に移設された。
 
 
 
 

島津家久の3男 島津忠朗を初代当主とする加治木島津家は、島津義弘の遺命により、1万石を給せられ創立した分家。本宗家に次ぐ格式高い一門家で、後に薩摩藩7代藩主 島津重年、8代藩主 島津重豪を輩出している。
 
初代 島津忠朗と夫人の墓。
 
 

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