1/14/2024

山田昌巌灰塚・出水麓武家屋敷群・出水御仮屋門


2023.12.28 (1)

前日に帰省し翌朝から出水を再訪。
国道447号線沿いに案内看板があり、それに従っていくと山田昌巌の灰塚がある。山田有栄は仏門に入り昌巌と名を改め、晩年を過ごした萩之段で亡くなった。そして火葬されたこの地に灰塚が建立されている。



一時は豊臣政権の直轄地になっていた出水は、慶長の役の恩賞で島津氏へ返還されると、出水地頭に本田正親、有栄は福山地頭に任じられる。そして上方で関ヶ原合戦に繋がる不穏な動きが起こり、兵の集まらない状況下に主君の一大事として福山衆を引き連れ、島津義弘のもとへ急ぎ馳せ参じた。その合戦では退き口を敢行し薩摩への帰路、食料難に苦しむ一行に有栄は所持していた金細工が施された刀の鞘を食事の代金にあてた。かねてより難事の時に備えていたもので、また金を煎じると毒消しに有効と信じていたためだという。

1629年、昌巌は樺山久高の後任で3代目出水地頭に任命された。しかし転任を望まない福山の家臣たちは藩主 島津家久に懇願し、特例で15人だけ出水への移住が許される。出水麓武家屋敷群の山口邸が昌巌の屋敷跡といわれ、山崎馬場に家臣の屋敷も配置された。また出水兵児の教育や産業振興にも力を注いだ。



江戸時代初期、薩摩藩は出水が国境に位置することから、出水城麓に藩内から武士を集め住まわせ肥後からの侵攻に備えた。現在まで整備されることが少なかった武家屋敷群が残っている。

税所邸の武家門。



この出水麓武家屋敷群で公開されている税所邸にて、出水城と木牟礼城の城郭符セットと「山田昌巌翁伝と児請」という冊子を購入。



家屋の造りについていろいろ説明して頂いた。囲炉裏横には非常時に子供や女性を逃がす抜け道があり、決して主人が逃げるためではないと仰っていた。



また興味深かったのが天井を一段高くした造り。雨天時に弓矢の練習をするためとのこと。部屋を跨いで奥が弓的場になっている。



出水麓仮屋跡の出水小学校に現存する御仮屋門。島津義弘が隠居先と定め、帖佐館から移築されたというが実現はしなかった。


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