3/06/2023

島津斉彬御陣屋跡・天保山砲台跡・新波止砲台跡


2022.12.26

天保山中学校内に、島津斉彬御陣屋跡の碑がある。



幕末、幕政改革のため3000人規模の率兵上洛を計画していた島津氏28代 斉彬。1858年7月8日に城下の諸隊を集め、天保山調練場で合同軍事演習を行なった。体調が悪かった斉彬だが、炎天下のなか終日の訓練強行がたたり、その夜に発熱し同月16日に非業の死を遂げる。

兄 斉彬の遺志を引き継いだ久光は、1862年に兵を率いて上洛を果たした。勅使とともに江戸に入った久光は幕政改革に乗り出す。
そして任を終え江戸から京への帰途、久光一行は武蔵国生麦村でイギリス人を殺傷する事件を起こした。この生麦事件に対して、イギリスは犯人の処罰と賠償金を要求。しかし交渉は難航し、翌1863年に7隻のイギリス艦隊が錦江湾に入り威圧した。そして3隻の薩船が拿捕されたのを機に、天保山から砲撃が行われ薩英戦争へと至った。


天保山公園の天保山砲台跡。




島津氏27代 斉興が外国船来襲に備えここに砲台を築き、斉彬によって錦江湾沿岸各所に砲台が整備された。天保山砲台には11門の大砲が配備されていたという。

また島津氏29代 茂久(忠義)と久光は、鶴丸城が艦砲の射程内にあることから、本陣を千眼寺に移し指揮を取った。

千眼寺跡。




鹿児島港へ移動。
かつて築かれた石積防波堤は海側が埋め立てられ、現在いおワールドかごしま水族館が建つ北埠頭の護岸としての役目へと変わっている。

北側の新波止は、島津斉興から斉彬の時代にかけて台場に改築された。
円弧状に積んだ巻石には、船の繋留させるために使用した係留杭がある。



薩英戦争時には17門の大砲が備えられた。単縦陣を先導する旗艦ユーリアラス号に、新波止砲台から発射された砲弾が命中し、艦長ジョスリングや副長ウィルモットらが戦死した。

また南側の一丁台場は1872年に築造、その両防波堤を継なぐ遮断防波堤が、1904年の修築事業工事で新設された。

遮断防波堤。


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