9/12/2023

総禅寺跡 (2)・膝跪騂の墓


2023.8.16 (1)

今日は豊州島津家関連の史跡を中心に巡る予定。まずは豊州家島津氏菩提寺の総禅寺跡を再訪した。民間墓奥に豊州家島津関係の石塔群がある。



島津氏8代 久豊3男、豊州家初代 島津季久の墓。



以前、豊州家6代 島津朝久のものとした墓石だが、7代 島津久賀息男久基墓との表示がされていた。朝久の墓の標柱は不自然な所に建っていて、元々違和感はあったが真相はどうなのだろう。



島津義弘が北郷忠孝(忠親の実弟)の娘との間にもうけた御屋地の墓。後に朝久の室として迎えられる。



伊東氏、肝付氏と対峙していた豊州島津家は、北郷忠親(忠相の子で北郷氏9代だった)が豊州家5代当主に就き、1560年に宗家から義弘を養子に迎え入れ飫肥の守りを固めた。しかし廻城の戦いで苦戦を強いられた島津氏15代 貴久は、養子縁組を解消させ義弘を本宗家へ戻している。


豊州島津家歴代墓は、10代以降の墓地があった南林寺から改葬されたもの。ちなみに豊州島津家8代 久守、9代 久邦は興国寺跡が墓所となっている。



島津金吾歳久公胴体埋葬之跡。



1592年、梅北一揆の責任を取らされるかたちで豊臣秀吉の命に従い、歳久は自害へ追い込まれた。首は名護屋城にいた秀吉の検分を受け、京都の一条戻橋に晒され浄福寺へ、胴体は総禅寺に葬られた。首と胴体が一緒に埋葬されるまで280年もの年月を経ることになる。



島津義弘居館跡の先にある膝跪騂の墓へ。1572年、日向伊東氏との木崎原の戦いに於いて、柚木崎丹後守との一騎討ちで義弘を愛馬が両膝をつき助けたといい、その愛馬は膝跪騂と名付けられたと伝わる。墓石は1707年に種子島伊時(後の久基)が再建したものだという。



後ろには膝跪騂を最後まで世話した橋口対馬安重夫婦の墓がある。


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