1/23/2017

多宝寺跡・伊作城跡・梅天寺跡・天昌寺跡・大乗寺跡


2016.12.29

伊作城跡へ向かう途中、偶然にも多宝寺跡なるものを見つけた。



ここには、初代久長から9代善久まで(三代親忠は天徳寺墓地)の伊作島津家累代墓所、貴久らを祀る石亀神社が建立されている。

貴久が島津本宗家を継いだため、伊作島津家は10代忠良(日新斎)の代で途絶えた。



拝殿の裏手にある伊作島津家累代墓所。一番左の大きいのが9代善久の墓石。

 
 
 
 8代久逸の墓石は、隣りの区画内にある。
 
 

累代墓所の右側には、樺山久高夫妻墓がひっそり建っていた。久高は、朝鮮出兵や琉球侵略で武功を挙げた島津家重臣。



そして伊作城跡へ。
島津四兄弟の誕生地として知られる伊作城は、山之城・東之城・蔵之城・西之城などの曲輪と、主郭とする亀丸城で構成された城郭。



亀丸城跡には日新斎、四兄弟らの誕生碑が建ち並ぶ。




御仮屋城と亀丸城間に現存する空堀。



この辺りで「多宝寺跡まで800m」って看板があったけど、さっき行ったとこに着くのか?山道の往復はキツい。考えるまでもなかった。

亀丸城跡以外の曲輪には、特に目を引く現存物は無かった。小雨が降っていたので、次の梅天寺跡に急いで向かう。



元は妙法寺。四男家久の位牌が納められたことから梅天寺と名を改める。この墓石群の一番右が家久の墓石。





近くに薩摩永吉地頭であった上井覚兼の「修学の地」って書いてある看板を発見!しかしどれだけ歩くのかわからず、またの機会があれば行きたい。





次に行った天昌寺跡は、現在「永吉島津家歴代領主等の墓所」となっている。ドリフターズの影響か、最近は県外から訪れる女性が多いとか。



正面から向かって右奥に、家久から引き継いだ日向佐土原城主豊久の墓石が位置する。



なぜこの地なのか?豊久が関ヶ原での退き口で、義弘を薩摩へ返すべく「捨てがまり」で戦死し、城主を失った佐土原を、内府は戦後処理で公領として召し上げられ、遺臣らは龍伯義久から新たな知行地として、ここ永吉が与えられたことによる。


後日、永吉南郷会長より永吉地区の史跡資料を郵送して頂いた。
上記等の史跡をサイクリング等で巡るイベント主催や、永吉島津家墓地の維持管理を行っているようだ。

また、歴史小説「豊久の女(め)」の紹介文があった。知ってはいたけど、これを機にAmazonで5冊すべて購入することにした。1週間でさらっと読めてしまった。
関ヶ原の戦いのちょっと前から薩摩帰還までを背景とし、主人公の目線で豊久が描かれている。




この日の最後は、貴久夫人雪窓院が建立し、後に日置島津家の菩提寺となった大乗寺跡へ。




趣あるこの階段を上がり、民家脇の道を抜けると日置島津家の墓石群があった。仁王像を脇に従え、階段を上がった先が歳久の墓石。


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