3/12/2017

比企谷妙本寺


2017.1.2

薩摩、大隅、日向国にかけての近衛家領島津荘の下司職に任命された惟宗忠久は、荘園名に因んで島津の姓を名乗り、島津忠久と改め島津氏の祖となった。



忠久と比企氏との関係は深く、源頼朝の重臣だった比企能員の血筋(妹もしくは娘)と婚姻し、母を比企尼嫡女の丹後局とするのが現在の定説。また畠山重忠の娘 貞嶽夫人を妻とした。

父に関しては、島津氏正統系図に伝わる源頼朝庶子説、今まで通説だった惟宗広言などいくつかの説が混在するなか、近年は通字を用いている惟宗忠康が有力になっているとか。忠康は身分が低かったため、丹後局は広言と再婚し三郎(忠久)は養育されたとも。
いづれにせよ、彼の家系を調べれば調べるほど混乱を極める。

しかし元服名に関して、1185年に源頼朝が惟宗三郎の元服を鶴岡八幡宮で行い、その時の烏帽子親を畠山重忠が務め、忠の字をもらい忠久と名乗る、ともあり忠康の通字説に矛盾が生じる。
ちなみに島津家伝による生年をとると元服は7歳ということになる。翌年には島津荘守護職に就く。


鎌倉時代に比企一族の屋敷があった敷地に、比企谷妙本寺は建てられている。
現在の総門は大正14年に再建されたもの。右の二層のそれっぽい建物は、門をくぐってみると幼稚園だった。



総門から方丈門を抜けるルートをとり、寺務所で朱印帳(左の方。右は鶴岡八幡宮)を書いてもらった。



寺務所の横にある本堂。



鐘楼堂を過ぎると、二天門と祖師堂が見えてきた。
右に持国天、左に毘沙門天が祀られてる二天門は、弁柄塗りという塗装が施されている。



門をくぐると祖師堂。



1203年、鎌倉幕府第2代将軍 源頼家が重病を患い、子の一幡に家督を譲ろうとしていた。
一幡の母は能員の娘 若狭局で、北条氏は比肩していた比企氏の勢力拡大を恐れて能員を誘殺。これに反発し、対抗していた比企一族だったが、ついに力尽き自ら小御所に火を放ち、自刃し一族は滅びてしまった。この一連が比企の乱といわれる。

一幡も然りで、その時着ていた着物の小袖が焼跡から見つかった。それを埋葬したと伝わる一幡之君袖塚が、祖師堂に向かって右手前に位置する。




その後ろに比企一族之墓。



比企の乱というと、比企一族が一方的に反乱を起こしたと捉えがちだが、これは鎌倉幕府側(北条氏)の吾妻鏡に基づいたもので、愚管抄や貴族日記による北条時政の政変、または小御所合戦との見解が正しいように思える。

またすでに病状が回復していた頼家の突然死についても、吾妻鏡では死因には触れず、一方の愚管抄には北条氏による刺殺と、記述が異なるのも幕府側の正当化、歪曲されたのだろうと思ってしまう。

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