3/27/2017

丹後山神明社・畠山重忠公終焉の地


2017.3.19

戸塚駅からバスを乗継ぎ、上矢部で下車。バス停近くの丹後山神明社と丹後局供養塔へ。

丹後局は、源頼朝公から愛妾され身ごもりと、嫉妬深い正室の政子から鎌倉を追いやられ、ちょうどこの地に辿り着いたときに産気づいた。




丹後山神明社の鳥居を上がると拝殿があり、ここで丹後局が三郎、後の島津忠久を産んだとの伝承が残っている。暗闇のなか狐火が灯ったおかげで無事に出産できたことに感謝し、これが後に狐が島津家の瑞獣となった所以。

しかし、同じような言い伝えが大阪の住吉大社にもあり、忠久の誕生石まで存在しているとか。こちらは出産時に雨が降っていて、後に神事の日などに降る雨は、島津雨と言われ吉兆とされるようになった。

また上矢部には続きがあって、母子を鎌倉幕府の御家人 畠山重忠が後ろ盾し援助をしていたという。のちに娘(貞嶽夫人)は忠久に嫁いでいる。


バス停の方に戻りしばらく歩き、資源選別センター横の丹後局供養塔へ。道路に面した所に建っていて、周りが開発され追いやられた感が否めない。



上矢部からバスで三ツ境、相鉄線鶴ヶ峰からバスを乗継ぎ代官前で下車。特に意味もなく白根神社に寄って、旭区役所方面へ向かう。

重忠は北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、北条義時率いる幕府軍により武蔵国二俣川(鶴ヶ峰)で討たれた。

菅谷館に召集令状が届き、本田親恒や榛沢成清を率いて急ぎ鎌倉へ。
しかし先発していた重保の謀殺、牧ヶ原に武装した鎌倉幕府軍が構えている情報を掴み、北条一族に謀られたことを知る。重忠は謀反の意志がないことを示すため、全員平服のまま進軍させた。これに北条義時率いる幕府軍は重忠の謀反ではなく、北条時政の某略であることを悟ったという。この134騎対数千騎の4時間にも及ぶ二俣川合戦は、幕府軍に戦う意志がなかったことを意味する。
重忠は完全な負け戦さで死をもって潔白を訴えた鎌倉武将の鑑として、後世に語り継がれるようになった。非情なことに、比企能員の変で北条側について義時と共に比企一族を滅ぼし、それからわずか2年足らずの出来事だった。


重忠の死を知った正室 菊の前は、駕籠の中で自害したという。駕籠ごと祀ってあり、駕籠塚と言われている。
血縁的に菊の前は政子の妹、義時と兄妹、つまり時政の娘ってことになるが、時政の実権争いに巻き込まれた被害者の一人。



さらに下り、鶴ヶ峰神社を過ぎると重忠の霊堂薬王寺、二俣川合戦で討ち死にした134騎を6つに分け埋葬した六ツ塚が見えてくる。





旭区役所前にある畠山重忠公碑とさかさ矢竹。愛甲季隆が射った矢で討ち取られた畠山重忠公終焉の地 。
死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、2本の矢を地に突き刺した。それが根付き、さかさ矢竹と呼ばれるようになった、と看板に書いてあった。本物は、旭区役所北東側に生い茂っていたけど全て消滅してしまったらしい。



旭区役所裏側にある、重忠の首が祀られた首塚。首を洗い清めたという井戸も近くにあったが現存しない。



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