6/24/2017

金王八幡宮


2017.5.28

JR山手線渋谷駅の宮益坂口を出ると、明治通りを挟み渋谷警察署がある。ここから六本木通りは上りで現在も高台の様子が見てとれると思う。この辺りが渋谷城だったとされるが、現在確認できる遺構は金王八幡宮にある渋谷城砦の石だけだとか。

1524年、相模の北条氏綱と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦が起こる。この高輪原の戦いで渋谷一族の城館も焼失してしまった。




渋谷氏の祖 河崎基家が1092年に渋谷城の一画に創建した渋谷八幡宮。基家の子 渋谷重家は嫡子に恵まれず、渋谷八幡宮に祈願し授かった渋谷常光(金王丸)の名声によって金王八幡宮に名称を替えたと伝わる。金王丸は源義朝、頼朝の二代に仕えて武功をあげた。




神門に通じる階段右手にある金王丸御影堂には、金王丸の木像と毒蛇長太刀が納められているんだとか。金王桜が見頃になる3月最終土曜日に催される金王丸祭で御影堂を開帳し公開される。



手水舎。



社殿の右手に鎌倉から移植した金王桜、そして左手に渋谷城砦の石が置かれている。





ちょうど2冊目の朱印帳を終えていたので、3冊目を購入し書いてもらった。
社務所の横には寶物館が併設され、自由に観覧することができる。



北条軍が江戸へ攻め入る際にも通った鎌倉道を明治通り沿いで偶然見つけた。渋谷川を越える道がそれだが、旧鎌倉道といわれても実感がわかない。




今年も渋谷道玄坂でおはら祭が開催されたり、先日訪れた薩摩藩渋谷邸跡、東郷神社など渋谷と薩摩の関わりは古く、それには渋谷一族が深く関係している。詳しくは西遷御家人関係の書、入来文書辺りの本を読めば見えてくると思う。



武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一木、今井)を所領していた渋谷一族は、1247年の宝治合戦の戦功により薩摩国北薩地域地頭職を得る。これまで千葉氏が代官支配していたのに対し、渋谷光重は息子5人を薩摩に下向させ祁答院氏、入来院氏、東郷氏、高城氏、鶴田氏とそれぞれ領地の性を名乗り、祖となって統治させた。
ちなみに入来文書によれば、高城に下向したとされる重貞、鶴田の重諸は承久の乱で既に戦死していてそれぞれ2代目が下向したとある。

先の1185年、源頼朝から惟宗忠久が島津荘(薩摩国、大隅国、日向国)の守護職に任命される。1203年に比企能員の変が起こり、忠久は縁者とし守護職を収公、10年後に薩摩国地頭職を復権するが、島津氏第3代当主島津久経が1281年元寇 弘安の役で島津軍を率いるまで島津氏の在地はされていなかった。
下向が本格的に進んだのは、木牟礼城に入城し薩摩で没した4代当主忠宗からとされる。代官統治していた島津氏と先に在地統治していた渋谷氏は後の島津貴久、義久の時代まで敵対関係となって抗争を繰り返していった。

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