6/13/2018

木牟礼城跡・鎮国寺感応寺・龍尾神社・龍光寺・薩州島津家墓所


2018.4.8

泰平寺から車で1時間ほど移動。出水市の木牟礼城跡へ。

1185年、惟宗忠久は島津荘下司職、翌1186年には島津荘地頭職に補せられると、畠山重忠の重臣 本田次郎親恒(近常)が任地の情勢を探るため、職務代官として先発し薩摩に入った。
親恒は、同族で薩摩国山門院の院司 千葉秀忠を頼ったという。
当然、土着の豪族が勢力を奮っていて、23回にも及ぶ合戦を繰り返すことになるが、山門院の地に木牟礼城を築くまでに至った。

親恒は1189年の奥州藤原征討に畠山重忠と参陣しているので、思いのほか滞在期間は短かったことが推測できる。また忠久が初陣をかざったのもこの合戦だという。

ところで1186年に薩摩へ下向し、木牟礼城の築城は本田貞親だというのが通説だが、いろいろ掘り下げると、やはり本田親恒とした方が辻褄が合う。
貞親は、重忠の実子で親恒の養子なので、年齢的なことを考えても任務を遂行できたかというと疑問が残る。

1196年、忠久の入国の際に貞親が随従し、山門院の木牟礼城に入った。貞親は城内に竹林城を築きそこに居住。その後、忠久は祝吉御所に移ったとされる。
忠久は鎌倉に戻り、続く島津氏2代 忠時と3代 久経は下向していないので、貞親が現地統治を担っていった。

また忠久は貞親を大隅国守護代としていて、以降、本田氏は代々清水城を治所とし、島津氏に仕えた。島津家久の母(島津貴久の側室)は本田親安(親康)の娘で、本田薫親もこの末裔になる。




木牟礼城の一画、小高い丘の頂に木牟礼城跡の碑と島津氏5代までの城跡だったことを示す石碑がある。



以下、説明板より抜粋。
木牟礼城は初代 忠久から5代 貞久までの間、領国運営の拠点となった。貞久は所領を二子に分与し、惣領の師久に薩摩国の守護職(総州家)、弟の氏久(奥州家)に大隅国の守護職を与え、師久は川内の碇山城に新たな守護所を設け、木牟礼城には貞久が残った。
やがて総州家と奥州家の勢力争いが起こり、総州家が奥州家に滅ぼされると、木牟礼城もその存在価値を失い廃城となった。


木牟礼城跡の手前で、何かの標識を発見していたので後で確認した。この更地が本田近常の屋敷跡だという。道路を挟んで現在民家が建つ所には畠山重忠の屋敷跡が。
この標識自体平成29年建立と新しく、辺りを探ってみたけど遺構的なのは見当たらなかった。




木牟礼城跡から車で10分、鎮国山感応寺へ。



周辺は野田郷武家屋敷跡で、江戸時代初期からの面影を残す武家屋敷、門や石垣が連なっている。薩摩藩の外城として肥後国からの防衛を担い、また地方支配の拠点となった。


1194年に忠久の命により本田貞親が栄西を開山として創建した鎮国山感応寺は、廃仏毀釈で廃寺になるまで島津氏の菩提寺だった。
既述のように建立された年代を考慮すると、貞親ではなく親恒ということになる。


鎮国山感応寺の本堂。



本堂裏側にある忠久から貞久まで5代の五廟社。左から初代~5代の順。




向かって右の壇下には本田親恒(左)、本田貞親(右)の墓石が。
1205年、北条時政から畠山重忠謀反の疑いをかけられ、鶴ヶ峰で重忠と共に親恒は討たれた。




1196年に忠久が薩摩へ赴く途中、博多沖で暴風にあい難航し、筑前筥崎八幡に祈願して難を逃れた。
そして、筥崎八幡を勧請して神社を建て守護神としたことに始まる。現在は感応寺仁王像の横に鎮座している。




木牟礼城跡と感応寺の中間ぐらいに位置する龍尾神社。



神像として忠久の衣冠束帯の木像が現存しているらしい。
この周辺は木牟礼城の屋敷跡であり、昔は御屋地と呼ばれていた。その名残りで、屋地という地名になっている。
現在、公園の片隅にある社殿は、昭和44年に移築されたものとのこと。



ここから車で約30分走り、薩州島津家菩提寺の龍光寺へ。





山田有栄の墓石が目的だが、それっぽいのが見当たらない。住職に伺うと、ここではなく国道328号線を挟んだ山の頂上だとのこと。
ちなみに地元では、山田昌巌と言わないと通じなかった。1629年の出水地頭に赴任したときは、すでに昌巌と号していたためだろう。




中腹にある薩州島津家墓地。




島津氏9代 忠国の弟 島津用久が分家として薩州家と称して以降、140年に及び肥後との国境に接する出水の地を治めた。薩州島津家5代 実久は、本宗家の島津勝久と対立し、勝久は伊作家の島津忠良を頼り、嫡男 貴久を養子に迎え入れ家督を譲った。その後の悔い返し云々はご存知かと思う。

薩州島津家7代 忠辰は、九州征伐で豊臣秀吉が出水に来攻したとき、戦わずしてその軍門に降り出水を安堵された。しかし朝鮮出兵(文禄の役)の折、病として釜山浦に留まり進軍せず、豊臣秀吉の怒りをかって所領を没収され薩州家は廃絶した。忠辰は島津宗本家からの独立を画策していたため、島津義弘への従属を拒んだともいわれている。




正面の墓塔は、薩州島津家初代 用久とその夫人のもので、同じ囲垣の右側に2代から7代の墓石が並ぶ。廃仏毀釈前、もともと龍光寺はこの地にあったらしい。


山頂の山田昌巌(有栄)の墓。



山田有栄は朝鮮の役の功により、福山地頭を拝命した。また関ヶ原合戦では、手勢が少なかった島津義弘の窮状を知り参陣。退き口では右備えを務め、義弘を無事に薩摩へ返した功績はよく知られている。

山田昌巌夫人の墓。

 

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